家康、淀殿や三奉行から三成決起の情報を得る。(「どうする家康」160)
「どうする家康」第41回で、淀殿は、一方で石田三成に黄金を送り挙兵を支援し、一方では三成の勝手な挙兵で困っていると家康に訴えるという二枚舌を使っていました。三成の挙兵の際に、淀殿がどのように行動したについて、少なくとも『人物叢書淀君』(桑田忠親著)、『淀殿』(福田千鶴子著)、『北政所と淀殿』(小和田哲男著)には触れられていませんでした。従って、淀殿が三成挙兵の際にどう行動したかについては詳細はわからないため、①三成の挙兵を当初から支援した。②当初は三成の挙兵に困惑した。➂特別な対応をしなかった。④「どうする家康」のように動いた等いろいろな見方ができるように思います。
そうした中で、笠谷和比古氏は、『関ヶ原合戦と大坂の陣』の中で、淀殿や前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行は、三成が挙兵した当初は、三成に加担していなかったと書いています。そこで、笠谷和比古氏の説を紹介します。
『関ヶ原合戦と大坂の陣』によれば、上杉景勝討伐のため江戸に下った家康の許に石田三成と大谷吉継が挙兵の相談をしているという噂が上方で広がっているとの情報が大坂城の増田長盛から届きました。つまり、のちに石田三成に加担する三奉行の一人から、敵となる家康に、三成挙兵の情報が伝えられたということになります。
その書状も『関ヶ原合戦と大坂の陣』に記載されていますが、それを現代語訳すると次のようになります。「一筆差し上げます。今度、垂井において、大谷刑部少輔吉継が煩(わずら)い2日間留まっています。石田治部少輔が出陣するとの噂がこちらで広がっています。今度、追々お知らせします。7月12日 増田右衛門尉長盛 永井右近太夫(永井直勝のこと)殿」
これについて、笠谷和比古氏は「(増田長盛の書状を)家康方を攪乱する目的で発した偽書ではないかと解釈する向きもあるようであるが、これはそのような無理読みをする必要はないと思う。」として、この時点では、三成は、まだ大坂の三奉行に対して挙兵に加担するよう働きかけをしていなかったのであろうとしています。
そして、「石田三成と大谷吉継が謀反を企てているので、事態を沈静させるために急ぎ上洛ありたい旨の要請書状が、淀殿と三奉行からも家康のもとに届けられていた」そうです。
そのことは、榊原康政から秋田の秋田実季(さねすえ)に宛てた7月27日付の書状の内容から確認できるとしています。その書状も『関ヶ原合戦と大坂の陣』に載っていますので、現代語訳してみます。
「(前略)しからば、上方において、石治(石田治部少輔)三成・大刑(大谷刑部少輔)吉継が謀反を起こしたので、大坂から淀殿と三人の奉行衆、前田利長などから、早々内府(家康)に上洛して欲しいと言ってきたので、右の謀反を起こした両人を成敗するため、今度江戸に下った上方衆を同道して、上洛します。(後略)」
増田長盛ら三奉行は、石田三成に味方をし、西軍として行動しますが、三成が挙兵した時点では、三成らの挙兵行動に困惑して、それを鎮定するよう家康に依頼するという態度を示していると笠谷和比古氏は言います。
笠谷和比古氏は淀殿がどう考えていたかまでは書いていませんが、上記の榊原康政の書状には三奉行のほかに淀殿の名前もありますので、三成挙兵当初では、淀殿も困惑した可能性があると思われます。
なお、柴裕之氏も笠谷和比古氏と同様の見解を『徳川家康 境界の領主から天下人へ』p235で述べています。
笠谷和比古氏は、こうしたことから、石田三成を首謀者とする挙兵という事態は、明確に区別された二段階に分かれ、第一段階は、石田三成と大谷吉継の両名だけによる決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも何らの事前の相談も事情説明も行われないままに、反家康闘争の軍勢が催され始めた段階であり、第二段階は、石田三成と大谷吉継から大坂城の前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行に対して説得工作が試みられ、かれら豊臣奉行衆が一致してこの計画に同調した段階であるとしています。
本多隆成氏によれば「笠谷和比古氏の『関ヶ原合戦と近世の国制』『関ヶ原合戦と大坂の陣』が、これまでの通説の誤りを正し、また新たな見解を提示するなど、現在の研究の水準を示すものとなっている」(『定本徳川家康』p185より)そうです。

