家康、長束正家の謀計を見破る。これを大谷吉継は悔やむ。(「どうする家康」161)
徳川家康は、上杉景勝討伐のための江戸に向かいましたが、『改正三河後風土記』によれば、次の旅程でした。
6月16日大坂城出発し伏見城に宿泊、6月18日伏見城を出発し大津城で供応を受けた後、石部に宿泊予定だったが急遽予定を変更し夜に出発(事情は後述)。6月19日関に宿泊、6月20日四日市から船にのり三河国佐久島に到着、6月21日三河国吉田(現豊橋)城に宿泊、22日白須賀に宿泊、23日浜松城に宿泊、24日島田に宿泊、25日駿府城に城主中村一氏を見舞い、清見寺に宿泊、26日沼津三枚城で駿府城主中村一氏の弟中村一栄に面会した後、三島に宿泊、27日小田原城宿泊、6月28日藤沢に宿泊、6月29日江ノ島弁天、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し鎌倉に宿泊、7月1日金沢称名寺に宿泊、7月2日江戸城に到着。
家康は、6月18日に伏見城を発って、お昼時に大津城に到着しました。大津城主は京極高次で、高次の正室は浅井三姉妹の次女お初でした。お初は淀殿の妹であるとともに、秀忠の正室お江の姉でもあります。そこで、家康は、ゆっくりと饗応に預かりました。そして、大津城を発って、その晩は石部宿(滋賀県湖南市)に宿泊の予定でした。ところが、密告する者があり、急遽、夜中に出発し水口城下(滋賀県甲賀市)を通過し、危難を逃れました。
その事情が、『徳川実紀』付録巻九に書かれていますので、現代語訳して紹介します。
「(家康は)大津を発って、近江国石部に泊まりになった。水口の城主長束大蔵大輔正家父子が御旅館まで出迎え、「明日、私の城中で御茶を献上いたします。どうか御駕籠を(正家の城で)お停めください」と申し上げる。家康はその厚意に感謝し、御腰の物を与えて正家を返した。その夜、戌の刻(午後8時ごろ)に(家康へ)密告する者がおり、(家康は)突然石部を発ち、水口を夜明け前に通過した。
あとより渡邊半蔵守綱を使者として水口に遣わし、『当初はそちらの居城に立ち寄る予定であったが、急ぎのことが起こって突然出立した。大変残念に思う』と伝えた。正家は大いに驚き、すぐに守綱とともに追い付いて、井伊直政を通して、少しもやましいことはない旨を申し上げると、(家康は)御輿の側に(正家を)呼んで懇ろに言葉をかけた。『ただただ急を要することがあって約東を違えることとなった。少しも気にかかることかあるのではない。戦から帰るときは必ず立ち寄る。めでたい御茶でも求めさせてもらおう』などと親しげにおっしゃるので、正家も畏まって土山までお送りした。
このとき石田三成は、同国佐和山におり、正家と密かに話し合って、さまざま前もって凖備をしていたが、このように意表をついて迅速に通り抜けたので、この者たちの姦計はまったく上手くいかなかったという。この時、供の者たちすべてに『刀の下げ緒に火をくくり付けて通れ』と命じたが、水口の住人たちは、これを見て『関東勢の鉄砲の数は、それにしてもおびただしいものだ』と驚いたという。」
『徳川実紀』によれば、石部宿に宿泊した家康を水口城主の長束正家が宿舎に訪ね、翌日は水口城を訪ねるように招待しました。長束正家と石田三成が密謀を巡らして、水口城に家康を呼び込み家康を亡き者にしようと計画していたので、家康を招待したのでした。しかし、家康は、これを探知して、夜中でありながら急ぎ石部宿を出立し、水口城下を大急ぎで通過して、その計画を阻止したようです。
大谷吉継が石田三成が味方になることを了解した際に、事をなすには「智勇」が必要だが石田三成には「勇」が欠けているとして、その実例として挙げたのが、この水口での事件でした。
大谷吉継が家康を討ち取ることができなかったことを悔やんだと言う話は、下記ブログの最後の部分に書きました。
この家康暗殺が計画された場所は、滋賀県甲賀市の「牛が淵」だとされています。インターネットで「牛が淵・甲賀市観光ガイド」を検索すると「家康暗殺計画予定の地」として「牛が淵」が紹介されているページを見ることができます。

