小山評定での福島正則の発言の裏には黒田長政の工作があったという(「どうする家康」174)
家康は、7月21日に江戸を発ち上杉討伐に向かい7月24日小山に着陣しました。その間、石田三成挙兵の知らせが伏見城に籠城していた鳥居元忠から届きました。さらに各方面からも三成挙兵の情報が入ってきました。そこで、7月25日、家康は、同行した諸将を集め軍議を開きました。これが有名な「小山評定」です。この「小山評定」については、『徳川実紀』およびに『徳川実紀』付録に書かれていますが、『徳川実紀』附録のほうが丁寧に書かれていますので、その内容を紹介します。
「(鳥居元忠から石田三成が挙兵したと知らせてきたことを)君(家康)は聞いて驚き、急いで御使いをやって、このたび随行している諸将を御本陣へ呼んで、井伊(直政)・本多(忠勝)の二人から元忠の注進状(ちゅうしんじよう)(事物の明細を記して上部機関に提出する文書)を(諸将に)見せて、「三成は昨年来の恥辱を晴らそうと謀反を企て、諸大名と相談していると思われる。(上杉)景勝もきっと(三成の企てに)同意するだろう。このことは、あの者(三成)の心中から出たことはいうまでもないが、秀頼のためとあるうえは、各々もその命令に背くことは難しい。まして、みな人質が大坂にいるので、それを見捨てて家康に味方できないことは、我ながら心苦しく思う。そもそも戦国の習いで、今日は味方にみえても、明日には敵となることも珍しいことではない。今、各々が大坂へ帰ろうとも、家康がどうして恨みに思うだろうか。速やかにここから引き返して大坂へむかうとよい。途中の心配は少しもしなくてよい」と、(家康は)言葉を尽くして語った。
そのとき、誰も答えないうちに、福島左衛門大夫正則一人が進み出て、『内府(家康)のおっしゃることはもっともなことですが、今回のことは全く三成の謀り事から起き、天下を乱そうとすることに間違いありません。ほかの者はどうであれ、正則は内府の御味方をして、あの凶徒 (三成)を誅殺しようと思います」と言うと、黒田甲斐守長政が傍らから、「左衛門大夫(正則)が申し上げたように、我々もいまさら凶徒(三成)に味方しようという考えはついぞありません。このまま存亡を御当家(徳川家)とともにします」と申し上げると、そのほかの同席していた者はみな、この二人(福島正則・黒田長政)のように、(家康の)旗の下に従う旨をそれぞれ誓紙にして差し上げた。」
このように『徳川実紀』附録は、有名な福島正則が家康に味方をして三成を討つと発言したことを書き記しています。そのうえで、福島正則が、最初に「家康に味方する」と発言した裏には、黒田長政の働きかけがあったとして次のように書いています。
「この出来事の前、(家康は)密かに(黒田)長政を御陣に呼んで、密議をしようとした際、長政は早くも(福島)正則の陣所へ行き、 (正則を)いろいろと説得して、 (家康の)陣へ参り、事の巓末を申し上げたので、(家康の)ご機嫌はとりわけよく、長政が忠誠深くかつ才略のあることに感心し褒め称えた。このようなわけで会議のときになって正則が一番に賛同し、そのほかの人々もみな(家康の)御味方に属したという。」
こうして、家康に随行していた豊臣系諸将は一致して反転西上することになりました。
今日は、『徳川実紀』が記す「小山評定」について紹介しました。

