山内一豊、自分の居城掛川城を献上すると申し出る(「どうする家康」175)
「どうする家康」第42回の小山評定の場で、福島正則に続いて山内一豊が「内府殿とともに戦いまする」と叫んでいます。ところが、小山評定での山内一豊の動きとして有名な逸話は、自分の居城掛川城を家康に献上すると申し出た話です。今日は、この有名な逸話について書いていきます。
この話は、新井白石が記した『藩翰譜』に書かれています。『藩翰譜』も国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それをもとに現代語訳して紹介します。
「徳川殿の御陣に、小山、宇都宮に在陣していた大名・小名を召して、人々の考えを尋ねると、福嶋左衛門大夫正則が最初に味方すると表明した。続いて(山内)対馬守一豊が進み出で、『一豊が治めている城は、東海道にあります。急いで(徳川家の)軍勢で守っていただきたい。これまで貯え置いた兵粮も乏しいことはありません。』(と言った。)続いて『一豊の家の子郎等の妻子一族をすべて吉田城に行かせます。人質のため留め置いてください。(此の時の吉田城は池田輝政が治めていたが、輝政は徳川家康の聟なので、このように言ったのである)、一豊は軍兵を率い先陣に従って出陣します。』と申し上げると満座の人々は一斉に、彼ら二人(福島正則と山内一豊)の発言に同意して、天下の大事がたちまち決定された。徳川家康は大いに悦んで、一豊が言ったことに任せた。」
このように山内一豊の「居城を献上します」という発言に倣(なら)って、小山評定に参加していた東海道筋の各大名は次々と自分が居城している城を献上すると申し出ました。
この山内一豊の居城献上は家康にとって非常に重要な意味があります。もし、献上されていなければ、家康といえどもそれぞれの城ではお客様ですので、城内に勝手に入るわけにも行きませんし、兵糧米を使用することもできません。しかし、諸大名から居城を献上されたことにより、それぞれの城の兵糧米や施設を自由に使えるようになりました。こうして、家康は、清須城まで何の障害もなく東海道を西上できるようになりました。
このような重要な意味をもつ居城献上ですので、これを言い出した山内一豊は、関ケ原の戦いでは、南宮山の山麓に陣を構えていて、目ぼしい軍功はありませんでしたが、それにもかかわらず、戦後の論功行賞で、土佐国一国を与えられ、掛川城5万9千石から土佐20万石の国持大名になっています。
ところで、この居城献上のアイデアは山内一豊が考え出したものではなく、隣の浜松城主の堀尾忠氏の考えだったと言われています。このことも『藩翰譜』に書かれていますので紹介します。
「堀尾信濃守忠氏、いまだ若年であるが、才智ある人であるので、 一豊は常に親交して、家の事を大小の別なく、この人(忠氏)と相談していた。上方で出陣の話が起きて、徳川家康の御陣に呼ばれた時も、まず堀尾(忠氏)の陣中に行って、この度の事、どう思うと間うと、忠氏は、『私は我が城に兵粮をつけて、内府へ献上し、人質を吉田城に入れて、自らは先陣として出陣しようと思う』と言った。一豊は、『このことはもっともで当然である』と(考えて、)(忠氏と)一緒に(小山評定に)出掛け、福島(正則)が『お味方になります。』と言ったのに続いて、一豊は進み出て、堀尾(忠氏)が言っていたように申し上げた。堀尾(忠氏)と山内(一豊)が一緒に帰る時、「今日は、一豊殿はいつもの義理堅さと違っていて、私(忠氏)は言う言葉もなかった。」と言って堀尾(忠氏)は、大笑いしたので、山内(一豊)も同じように笑いながら帰ったという。」
堀尾忠氏は、関ケ原の戦いでは、山内一豊と同様に南宮山の毛利勢に備えて山麓に布陣していたため、関ケ原の戦いでの武功はほとんどありません。しかし、戦後の論功行賞で浜松12万石から出雲国松江24万石に加増転封されて国持大名となっています。この論功行賞は、場合によっては、山内一豊の提案の本当の起案者は堀尾忠氏だということを家康が知っていたことによるのかもしれません。

