徳川秀忠、上田城攻めに手こずり、関ケ原の戦いに遅参する(「どうする家康」176)
慶長5年(1600)7月25日の小山評定の結果、東軍は上杉景勝討伐を一旦中止、反転西上することになりました。そこで、福島正則はじめ豊臣系諸将は7月26日に陣を引き払い西に向かいました。しかし、豊臣系諸将を中心とする西上軍には、徳川軍の本隊は同行せず、井伊直政隊のみ徳川軍の先鋒として同行する予定でした。しかし、井伊直政が急病となったため、本多忠勝も軍監として同行することとなりました。「どうする家康」では、本多忠勝は、後から追いかけて出陣するかのように描かれていましたが、本多忠勝の出陣にはこうした事情があったようです。ただし、本多家の本隊は忠勝嫡男の本多忠政が率いて東山道を進む予定であったため、忠勝の手勢は400名ほどだけでした。
また、西上する東軍を後ろから上杉軍が攻撃する怖れがありますので、それに対する軍禅の総大将を命じられたのが家康の次男結城秀康です。結城秀康は、宇都宮城に在陣し、小笠原秀政(古河城3万石)、岡部長盛(下総山崎1万2千石)、皆川広照(下野皆川城1万3千石)らの徳川家武将を指揮して上杉勢に対峙するととも、伊達政宗、最上義光らの家康に味方する奥羽の武将たちの軍勢で上杉勢を包囲する態勢を整えました。
一方、徳川秀忠は、よくご存知の通り、中山道を進みました。秀忠隊が中山道を進むこととなったのは、信濃方面の西軍勢力特に上田城主真田昌幸を平定するためであったと考えられています。
この中山道を進んだ秀忠隊は徳川家の主力軍でした。それは、その構成をみるとわかります。徳川部隊は、本多正信が参謀として加わり、榊原康政(館林10万石)とともに初陣の秀忠を補佐しました。さらに大久保忠世の嫡男大久保忠隣(ただちか)(小田原6万5千石)、酒井忠次の嫡男酒井家次(碓井3万石)、本多忠勝の嫡男本多忠政(大多喜10万石)、奥平信昌の嫡男奥平家昌(小幡3万石)などが参陣していました。榊原康政を筆頭に、徳川四天王と呼ばれた酒井忠次や本多忠勝の嫡男が両家の軍隊を率いて参陣するなど錚々たる武将が加わっています。
東海道を進んだの徳川軍が井伊直政(高崎城12万石)だけであるのに比べると有力武将がすべて秀忠隊に加わっていることがわかります。まさに徳川軍本隊でした。
秀忠隊は、8月24日に宇都宮を立ち、9月2日小諸城に到着しました。そして、ここで真田昌幸が籠城する上田城に使いを出し降伏を勧告しました。しかし、真田昌幸は回答をはぐらかして日にちを稼ぎ上田城の防御を固めました。一方、秀忠隊では、本多正信が自重論を唱えたため攻撃が遅れ、9月5日になって小諸を発ち、真田信繁が守る砥石城を攻略しました。そして、翌6日には上田城外の苅田を実施しました。この時、真田昌幸は、徳川方を徴発し、この挑発にのった徳川勢が上田城を無理攻めをした結果、多大な被害を受け敗北しました。この苅田の話は「どうする家康」でも描かれていましたが、もっと激しい戦いだったようです。上田城を攻略できなかった徳川軍は、一旦小諸城に戻りました。小諸城に帰城した秀忠に家康から9月1日に西上したとの連絡が到着しました。そのため、徳川秀忠は、9月9日、あわてて小諸を出発しました。しかし、9月13日にようやく下諏訪に到着したものの、関ケ原の戦いにはまったく間に合いませんでした。徳川秀忠が関ケ原の戦勝を聞いたのは、9月17日の妻籠宿でした。

