徳川家康、江戸を出立し、9月14日に赤坂に着陣(「どうする家康」177)
「どうする家康」では、家康が、江戸城で各地の諸大名を味方にするために盛んに書状を書く場面がありましたが、その後の家康の西上の経緯はあまり描かれていませんでした。そこで、今日は、小山評定後の家康の動き概略をまとめてみます。
家康は、「小山評定」後も小山に留まり上杉景勝に対する包囲網の構築を進めました。そして8月5日に江戸に戻りました。既に豊臣系諸将は続々と西に向かっていました。しかし、家康はその後も一向に江戸を出立することはありませんでした。なぜ、家康が即座に西上しなかったかについては次のように諸説があります。①西上した後の上杉景勝対策を万全にするため。②佐竹義宜の動向が不安であるためその対策を講じていた。➂西上した豊臣系諸将の向背がはっきりしないため、その豊臣系諸将の動向を見極めていた。
こうした諸説の中で豊臣系諸将の動向を見極めていたという説が最も支持されています。
先発していた豊臣系諸将は、8月13.14日頃には遅れていた武将たちも福島正則の居城である清州城に集結していました。しかし、いつまでたっても家康が江戸を出立しないため苛立っていました。そうした中、8月19日に家康からの使者として村越茂助がやってきました。福島正則が「なぜ内府はまだ出馬しないのか」と詰問しました。家康の侍医板坂卜斎(ぼくさい)の随行記である『慶長年中卜斎記上之巻』によれば、村越茂助は「各手出しなく故に御出馬なく候。手出しさえあらば急速に御出馬にて候わん。(おのおのが手出しをしないから御出馬しないのだ。手出しさえすれば急いで出馬する。)」といって逆に非難しました。これを聞いた福島正則たち豊臣系諸将は即座に岐阜城攻めを決めました。当時の岐阜城主は織田信長の嫡孫織田秀信(幼名三法師)で、織田秀信は西軍に味方していました。
ところが、岐阜城攻めの軍議で、福島正則と池田輝政が先陣を争い大騒ぎになりました。最終的に木曽川上流の河田から池田輝政を先鋒とする部隊が渡河し、下流の尾越から福島正則を先鋒とする部隊が渡河することとなり、下流部隊の渡河が終わったら烽火(のろし)をあげるので、それをみて上流側が渡河するということになりました。東軍諸将は21日に出撃しました。上流部隊は、岐阜城側から攻撃されたため、やむえず下流側の渡河完了を知らせる烽火をまたずに渡河を開始しそのまま織田勢を撃破した後、下流渡河隊の到着をまたずにそのまま岐阜城に向かいました。
約束が破られたことを知った福島正則は激怒しましたが、周囲の武将たちがなだめたため、すぐに岐阜城攻撃に向かうこととしました。
岐阜城攻撃の際にも福島正則と池田輝政の間でどちらが正面攻撃を担当するかで争いましたが、正面攻撃は福島正則とし、池田輝政は搦手から攻めることとなりました。23日に攻撃が開始されましたが、福島・池田両隊が本丸への一番乗りをめざして激しく競争したためため、岐阜城は1日であっけなく落城しました。
この岐阜城攻略の報を受けて、家康は豊臣系諸将の覚悟を確認できたので、ようやく9月1日江戸城を出発しました。そして、中山道を進む秀忠にその旨を報じました。徳川家康は、9月2日藤沢、3日小田原、4日三島、5日清見寺、6日島田、7日中泉、8日白須賀、9日岡崎、10日熱田と進み、9月11日に清須城に到着しました。そして、清須城では2日間滞在しました。その間、中山道を進む秀忠隊の進軍状況を確認し、井伊直政や本多忠勝とその対応を検討しています(『日本戦史 関原役』より)。そして9月13日清須城を出発し岐阜に入りました。そして翌14日に美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に到着しました。いよいよ、翌15日は関ケ原の戦いです。

