石田三成、14日夜、大垣城を出て関ケ原笹尾山に布陣する (「どうする家康」178)
徳川家康は、9月14日に美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に到着した。家康が到着すると早速軍議が開かれました。豊臣家諸将は、大垣城を攻撃することを主張しましたが、家康は、この作戦を採用せず、佐和山城を攻撃しつつ大坂城を目指すため、関ケ原に向けて出撃することを決定しました。
そして、その情報をあえて隠そうとはしなかった。大垣城攻城戦より野戦のほうが得策という目論見があったためとも言われています。
一方の西軍の開戦迄の動きについて『徳川実紀」や『改正三河後風土記』に書かれていますが、『改正三河後風土記』のほうにかなり詳しく書かれていますので、『改正三河後風土記』に従って書いてみます。『改正三河後風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができます。
大垣城の西軍は、会津に出陣していると思っていた家康が赤坂に在陣しているとの情報を得てびっくりしました。そこで、石田三成と宇喜多秀家は、それを確認するため、大垣城と東軍が在陣している岡山の間を流れている杭瀬川付近に軍勢を派遣し東軍を徴発しました。この挑発に東軍の一部が乗り、戦闘が行われました。これが「杭瀬川の戦い」です。この戦いで東軍は敗北しましたが、西軍は、この戦いで、家康の在陣に確証を得ました。そこで、石田三成、宇喜多秀偉は、「城中の諸将を招き集め、種々評定した上で、『関ケ原に出陣する。それぞれの軍勢とも提灯・松明を禁止し、栗原山の篝火を目当てに関ケ原に出陣すること』と触をながした。」(『改正三河後風土記』より)
この時、島津義弘の甥の島津豊久から関ケ原でなく家康の本陣である岡山を攻撃すべきであるという島津義弘の口上を伝えましたが、豊久に対応した石田三成の重臣島左近は島津義弘の作戦を採用しなかったと『改正三河後風土記』に書かれています。
こうして、西軍は関ケ原をめざして大垣城を出陣していきました。『改正三河後風土記』には石田三成の出陣について次のように書かれています。現代語訳して紹介します。
「(石田)三成はとりわけ静かに大垣城を出馬し、間道を探しながら、野口村から田んぼの中の道を通って、亥刻(午後10時頃)に南宮山に到着し毛利隊の陣に入って、いろいろを言葉を尽して、(毛利秀元)を諫めたけれど、吉川(広家)がいっこうに取あわないので、(石田)三成は『それであれば、宇喜多(秀家)殿と大谷(吉継)そして我等などが先陣を勤める。宰相(毛利秀元)殿には後陣をお願いする。』と申し置いて、牧田道より松尾山に到着し、(家老の)平岡石見守(頼勝)・稲葉佐渡守(正成)に対面して、「こうした状況であるので、中納言(小早川秀有)殿をよくよく諫めていただき、天下の御為に大きな功を立てられるよう、尽力されたい。」とくれぐれも言い含めて、藤川の高台に行き、大谷(吉継)に対面し、明日の軍事を相談して、小玉街道をへて夜明方に小関村に着陣した。島津(義弘)・小西(行長)・鍋島以下の諸軍は、栗原山の大篝(かがりび)を目じるしとし、大垣城を出発した。宇喜多中納言(秀家)は今度総大将の任にあたるので、はるか跡に残って丑の刻(午前2時頃)に大垣城を出馬した。この夜、亥刻(午後10時)ころから雨がしとしとと降って、足元も見分ることができず暗いうえ、牧田通りを進軍する大垣城の軍勢は、甲胄旗指物もびっしょりと濡れて、上下関係なく、大変難渋した。軍兵たちは『この様子はまさに敗軍落武者のようである。今度の合戦はうまくいくことはないだろう』と、眉に八の字の皺(しわ)をよせて囁いたが、夜半過る頃から雨は小雨になり、暁になりて空は晴たれども、霧が深くて、四方を見分ることが難しかった。15日の辰刻より霧がだんだん薄くなって、東西の旗幟も見分ることができたという。」
『改正三河後風土記』によれば、石田三成は、大垣城を出た後、南宮山の毛利秀元の陣に寄り、さらに松尾山の小早川秀秋、そして山中の大谷吉継の陣によって、笹尾山に陣を構えました。
西軍が進軍したルートは大垣城から南宮山の南を通る「牧田道」を経由するルートでした。 東軍の陣を敷いた赤坂は、中山道沿いにあるため中山道を行くと東軍と遭遇することから「牧田道」を利用したものと思います。
石田隊は、関ケ原に到着すると北国街道を見下ろす笹尾山に陣地を構えました。次いでに、北天満山に小西行長、南天満山に宇喜多秀家が布陣し、最後に、関ケ原に到着した島津隊は石田隊の南に布陣しました。
さらに南の山中村には、大谷吉継等の諸隊が布陣しており、既に14日中には、小早川秀秋が松尾山に布陣していました。そして、南宮山には毛利隊や長宗我部隊が布陣しており、関ケ原を包囲する形となりました。
下写真が毛利勢が布陣した南宮山です。南宮山の南を通っている道路が「牧田道」で、ここを西軍が進軍した考えられています。南宮山の北側を中山道が通っていて、東軍は中山道を進軍して関ケ原に向かったと考えられています。

