井伊直政の抜け駆けにより関ケ原の戦いが始まる(「どうする家康」179)
「どうする家康」第43回では、井伊直政が家康から先陣を承り戦いを仕掛けたことにより関ケ原の戦いが開戦したと描かれていました。しかし、多くの本が関ケ原の戦いの先陣は福島正則であったが、井伊直政が抜け駆けしたと説明しています。例えば、『関ケ原合戦と大坂の陣』(笠谷和比古著)p120には「(前略)このとき東軍徳川隊先鋒の井伊直政が、松平忠吉とともに騎馬士30人ほどを率いて最前線に進み出て、そのまま西軍陣地に向かって吶喊(とっかん)攻撃をしかけた。抜け駆けである。福島正則は井伊の抜け駆けを知ったが、しかし敢えてこれを咎めることはしなかった」と書いてあります。そこで、開戦の様子を『改正三河後風土記』から現代語訳して紹介します。
「井伊直政は、かねて(松平)忠吉(家康の四男)に手柄をたてさせようとして、早朝から(松平忠吉)を伴って陣の先端にすすみ、既に福島(正則)が陣を構えた脇を通ろうとした。するとすぐに、福島(正則)の物頭可児才蔵が馬から飛下りて、かぎ槍を横たえて、『今日の先陣は左衞門大夫(福島正則)以外はいない。誰であっても軍法を破って、(陣の)先に出られるものではない』と大声で罵った。(井伊)直政はこれを聞いて『私は井伊兵部(直政)である。内府(家康)の命令で大斥候のために通るのである。そこ開いて通してほしい。」といった。(可児)才蔵はこれを聞いて『そうであれば、従っている軍勢をここに残して、側近だけでお通りください。』と申し上げた、直政は『もっともだ』と言って付き従う部隊を家老木俣右京(守安)に『よく指示せよ』と言い含め、井伊直政自身は(松平)忠吉をはじめ、馬上の武士だけで敵陣の近くまで進んで行き、かねて定められた軍令に従い(家康本陣の)旗本から螺(ほろ)の音(ね)が一声吹き渡ったのを合図として、全軍が『ときの声』を三度にわたってあげた。福島左衞門大夫(正則)は昨夜から宇喜多(秀家)の軍勢を攻撃しようと、家老福島丹波、小関石見、長尾隼人等に軍令厳しく準備させていた。
『内府(家康)公の御旗が只今見えました。』という注進聞いて、(福島正則は)『井伊に先を越されては何の面目かあるだろう」と大声で叫び、そのまま馬に乗って、先陣の備の中を乗り廻わして、宇喜多(秀家)の軍勢に鉄炮を撃ち掛けた。家老たちも同じく駆け廻わって御旗本のときの声を聞くと同時に、(福島)正則も家老たちもそれぞれ馬上にて釆配打ちふり打ちふり、『やれかかれかかれ』と命じたので、一の手二の手の区別もなく、一斉に突きかかった。』
ここまで現代語訳して、ふと不思議に思いました。『改正三河後風土記』には井伊直政が抜け駆けしたとは書いてありません。先陣は福島正則だったと書いてあります。
それでは、抜け駆けの話はどこに書いてあるのかと探したところ『寛政重修諸家譜』の井伊直政の項に次のように書いてあるのを見つけましたので、こちらも現代語訳紹介します。
「15日の昧爽(みそう:明け方)関ケ原に陣をすすめた。福島正則が先鋒であった。直政は松平薩摩守忠吉をともなって、正則の陣を越えてすすんで先陣に出ようとした。正則の家臣、可児歳蔵がこれを咎めて、『今日の先陣は正則が承ったものである。それにもかかわらず先に出ようとするのは誰であるか』という。直政は偽って『斥候のものである』と答え、ついに松平忠吉と一緒に先にすすんで、敵陣に駆け入り、勇気を奮って力戦した。」
このように『寛政重修諸家譜』には、井伊直政が抜け駆けをしたと書いてあります。
戦場での抜け駆けは固く禁止されていました。歴戦の勇将である井伊直政がそれを知らないはずがありません。それにもかかわらず抜け駆けをしたことについて、戦いに勝った際に、豊臣系諸将だけの手柄となる怖れがあり、それを防ぐために徳川軍のいずれかが何としても先陣を切ることが重要だったので井伊直政が抜け駆けしたのだという説があります。笠谷和比古氏もこの説をとっているようです。

