小早川秀秋、西軍を裏切り大谷隊に攻めかかる(「どうする家康」180)
関ケ原の戦いが始まったのは、午前8時頃からと言われています。戦いの開始から東西両軍が激戦を展開しましたが、西軍の方が押し気味でした。正午頃になっても、勝負の行方ははっきりしませんでした。そうした中で、勝敗のカギを握っていたのが、松尾山に在陣していた小早川秀秋隊の動向でした。小早川秀秋は、戦いの前から東軍に内応を約束をしていたと言われていますが、正午になっても、動きませんでした。そこで、苛立った家康が、小早川秀秋軍に鉄砲を放して、内応を促したと言われています。これが有名な「問い鉄砲」です。これをきっかけに小早川秀秋が大谷吉継隊に襲い掛かり、西軍が総崩れをなり敗北したとされています。
この小早川秀秋の裏切りについても『改正三河後風土記』に詳しく書かれていますので、『改正三河後風土記』を現代語訳して紹介します。
「この戦いは今朝の辰の刻(午前8時頃)から巳午の刻(午前10時~正午)に及んだけれども、勝負いまだ決せず、ややもすれば(西軍の)先鋒の勢いに追立られ、(家康の)旗本まで色めき立つ事しばしばあった。金吾中納言秀秋かねて内通することとなっていた。(小早川秀秋に)属していた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保等も一緒に御味方(東軍)に内通し、裏切しようと相談を決めて、時節を伺いながら待っていた。平塚因幡守(為広)はその気配を察して、大谷吉隆(吉継)へ報告した。吉隆(吉継)もかねて金吾(小早川秀秋)の事は心元なく思っていたが、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保等が関東へ内通する事は夢にも知らなかったので、その子大学(大谷吉治)・次男木下山城守(頼継)とともに、松尾山の左右に備え、その身も松尾山にむかって、金吾(小早川秀秋)の軍勢が騷ぎ立ったならば忽(たちまち)に打破ろうと搆えていた。(家康の)御本陣も松尾山の動静が静まりかえり、急に裏切る様子もなかった(ことがわかった)。神君(家康)も不審に思っている所へ、(家康の)御側近くに伺候しした久保島孫兵衞が先鋒の様子を一見して立帰って「筑前中納言(小早川秀秋)はかねての(裏切りの)約束を破る様子に見えます。」と申し上げると、(家康はそれを)聞いて非常に気分を害し『悴(せがれ)めに騙されたか、もし秀秋が裏切ること(約束)を破るようであれば、毛利秀元も内通(するとの約束)を変えることがあるかもしれない』と、頻(しき)りに指を噛(か)んだ。これは、神君(家康が)少年の時から危急な事に遭遇した時の、頻(しきり)に指をかむくせであるが、この時も頻(しきり)に指をかんでいた。そして、『(久保島)孫兵衞、先手へ駆けて行って松尾山へ“さそい鉄炮”を打かけて、様子を見よう」と言い、蘆毛(あしげ)の馬を与えた。久保島(孫兵衞)は、それを承ってその馬に打乗ってっ先鋒へ馳け行って、鉄炮頭の布施孫兵衞に家康の命令を伝えた。布施(孫兵衞)はかしこまって所属する兵を引き連れて、松尾山の麓にむかって鉄炮をつるべ打ちに撃った。』
これが有名な「問い鉄砲」ということになります。『改正三河後風土記』はさらに続きます。「黒田長政はかねて(小早川)秀秋の内通の取次であるので、秀秋の陣中へ(家臣の)大久保猪之助を派遣していたが、この時、(大久保)猪之助が平岡石見守(頼勝)の側へ寄って、草摺(くさずり)をむんずと取らえ『今は合戦の最中なのに、当手(小早川隊)はまだ裏切る様子も見えない。甲斐守(黒田忠政)とのかねての約束を破るのですか。もしそうであれば弓矢八幡も照覧あれ、あなたと刺し違える。』と、刀の抦(つか)に手をかけた。石見(平岡頼勝)は少しも驚かず『我々はタイミングを見計らっている。何事も我等にまかせて欲しい』と言って、あちこちの合戦から目を放なさず見守っている所に、布施(孫兵衛)の組子が撃ち放した「さそい鉄炮」が聞えると同時にかねて側へ集め置いた伝令役の者を一度に招て『今日子細あって、我が軍から裏切るので、その事を先鋒の物頭・番頭の面々へ急いで連絡して、備の進退を見分するように』と申し渡し、伝令役たちは承りそれぞれ先鋒へ向かい、石見(平岡頼勝)は稲葉佐渡守(正成)と相談して、平岡・稲葉の配下は螺貝(ほらがい)を吹き鳴らし旗を立て直した。(中略)
金吾中納言秀秋は8千の人数を三手に分ち、5千人を左右に備え、3千を旗本組とし、松尾山を討ち下る。左右の先鋒の平岡石見(平岡頼勝)と稲葉佐渡守(正成)は兵たちに下知して、先手600挺の鉄炮を打かけ、鯨波(とき)を作り大谷(吉継)の陣に討ちかかった。」
襲い掛かれた大谷吉継隊は、小早川秀秋の裏切りを予想していたため、襲われてもすぐに逆襲して、小早川隊を押し返します。その様子は、次回、大谷吉継の討死とともに書きます。

