大谷吉継、多勢に無勢の中で奮戦するも最後は自害する(「どうする家康」181)
前回、小早川秀秋が裏切って大谷吉継隊に襲い掛かる場面が次のように『改正三河後風土記』に書かれていると紹介しました。「金金吾中納言秀秋は8千の人数を三手に分ち、5千人を左右に備え、3千を旗本組とし、松尾山を討ち下る。左右の先鋒の平岡石見(平岡頼勝)と稲葉佐渡守(正成)は兵たちに下知して、先手600挺の鉄炮を打かけ、鯨波(とき)を作り大谷(吉継)の陣に討ちかかった。」
それに続いて『改正三河後風土記』には次のように書かれています。この中に出てくる平塚為広(美濃国垂井城主)と戸田重政(越前国安居城主)は、大谷吉継の傘下の武将です。
「大谷隊の先鋒に備えていた木下山城守(大谷吉継の次男)はこの光景を見て、『やはり金吾(小早川秀秋)の軍勢から裏切ったぞ』と叫んで、今まで戦っていた敵を捨てて、大谷大学(大谷吉継の長男)とともに(小早川)秀秋の軍勢の先鋒へむかい陣を立て直した。戸田武蔵守(重政)・平塚因幡守(為広)は、先刻から黒田・細川と合戦の最中であったけれど、これもこの状況を見て引返して陣を立てた。大谷刑部少輔(吉継)の今日の出立(いでたち)は、練(ねり)の二小袖(ふたつこそで:小袖を二枚着ること)、その上に白に蝶(ちょう)を墨絵にした鎧直垂(よろいひたたれ)、朱の佩楯(はいだて:膝鎧)に朱の頬当(ほおあて)を付けて、甲胄は着しないで、薄青の絹の覆面に顔をさし入れて、頬当の下にて紐をむすび、四方取散しの轎(かご)に乗って、近習たちにかつがせていた。600人を一隊として、槍衾(やりぶすま)を作って待ち構えていたが、敵兵が近づいてくるとそのまま鉄炮400挺で撃ち掛けて『不義不道の秀秋、我が怨みは骨髄に徹している。秀秋の首を見なければ、私が死んでも瞑目(めいもく:目を閉じること)することはできない。お前たち身命をかけてかの敵を追い崩して、(小早川)秀秋を討ち果すべし」と、その身を轎(かご)に乗せて乗り廻して先鋒を励ました。平塚因繙守(為広)は十文字の鎗を打ち振って、前後の敵を突き伏せ突き伏せ、獅々奮迅の働きをし、あたりを払って打ちたおした。戸田武蔵守重政は馬上から鑓を取り落したので、大太刀を抜いて数十人を薙(なぎ)倒した。戸田(重政)の家来は主人が取り落した鑓を拾って出せば、武蔵守(戸田重政)はその志を称美して、抜いた太刀をその家来に与えた。大谷(吉継)の従兵たちも身命をなげて奮戦すれば、金吾(小早川秀秋)の軍勢は散々に突き立てられ追崩された。』
続いて、大谷隊に襲いかかった小早川勢の戦いぶりが次のように書かれています。「(小早川勢の)平岡石見守(頼勝)・稲葉佐渡守(正成)は大音声(おんじょう)をあげ『小敵の堅きは大敵の擒(とりこ)という事がある。大谷(吉継)がたとえ鬼神であっても、この大勢で取り囲んで討ち取るのに、何程のことあらんや。吉隆(吉継)を討って軍功を立てよ。手にもたらぬ小勢の敵兵、息を継がせないで追いちらせ』と下知するのに励まされて、田中勘右衞門・布田新平を始め、踏み留って討死する者は29人、創(きず)を蒙(こうむ)るもの50余人、御旗本より秀秋の陣中の軍使の奥平藤兵衞、味方の兵が平塚(為広)・戸田(重政)勢の死物狂の勢いに追い立てられ、松尾山の麓まで崩れかかるのを見て、大いに怒り、群がる敵中へ駈け入り、首を取って家来に持せて御旗本へ奉る。その身はなおも敵中に馳け入って、比類なき働きをして討死した。(中略)」
次に、早朝から大谷隊と戦っていた藤堂高虎隊、さらに小早川秀秋隊の裏切りに応じて裏切った脇坂安治隊等の戦いが次のように書かれています。
「また、藤堂佐渡守(高虎)・織田有楽父子・津田長門守(信成)等はそれまで大谷隊の兵にかけ立てられ敗走したが、松尾山から裏切った金吾(小早川秀秋)勢が押出すのを見て取って返し、大谷隊の左備の方へ討ちかかった。脇坂中務少輔(安治)・小川土佐守(祐忠)・朽木河内守(元網)・赤座久兵衞(直保)も、裏切りのタイミングになったとして、同じように藤川を渡って大谷隊の右の方へ討ちかかった。(小早川)秀秋の先手もこれによって勢いを得て、大軍勢が一手に引返して、大谷隊の旗本を目ざして押かかった。」
このように小早川秀秋隊などの内応軍勢および藤堂隊等の東軍に攻められた大谷隊は苦戦に陥ります。
「大谷隊も平塚・戸田隊も元来小勢の事なれば、三方の敵に揉(もみ)立てられ、隊伍も今は乱れた。しかし吉隆(吉継)は日ごろから家臣を愛して、衣を脱いで着せ、食を分けて喰わせて、父子兄弟のように親しんでおり、恩義を感じている家臣たちであるので、下河原惣右衞門・池沢七良・瀬川又一はじめ30余人、雑兵百余人、一歩も退かず、枕を同じくして討死した。」
こうした厳しい状況で討死を覚悟した平塚為広と大谷吉継は、戦場でありながら和歌の応答をしています。
「平塚因幡守(為広)は吉隆(吉継)の前に来て『よもやと思っていた期待もなくなり、秀秋の裏切に逢ったので、我々の運命も今日に限りです。』と言って涙を流すと、大谷も『私も秀秋を討てず、非常に残念に思う。この怨み生き返って死に返って秀秋に思いしらさないで置べきか』と、目は見えないけれども涙は雨のように、鎧直垂(よろいひたたれ)の袖をしぼった姿は大変哀れである。しばらくして顔をあげ『ああ愚なり愚なり。私は三成との日頃の深い友情を捨てがたく、彼の頼みを拒否しがたく、天が助ける内府(家康)を敵として思い立ったこの大きな望み、とても成就する事はないとはじめから思っていたことなので、今さら悔やむべきことではない。元から盲目になっている。悪病で人に顔を見せることはできない。一時も早く自害して、黄泉(よみ)の国で故太閤殿下へ謝罪しよう』というと、平塚(為広)は『それは早いです。為広が先鋒に行って戦いの様子を確認してお知らせします。まず、それまではお待ちください』と言い捨てて、また馬を駆けて秀秋の軍勢の中へ馳け入り、縦横に馳けちらし、敵数10人討取って見ると、馬廻りについてきている郎等20余人もみな討れた。平塚(為広)も戦い疲れしばらく馬を休めている所に、(小早川)秀秋の近臣横田小半助がこれはと見て、馳けよって一鎗突けば、平塚(為広)も十文字の鑓でその鑓をたたきつけて、ついに横田を突きふせてその首を取り、大谷(吉継)の方へ持せて送ると言って、矢立の筆をとり出し、一首の歌を書き添えた。
君がため すつる命はおしからじ 終にとまらぬ 浮世とおもへば
『この首は私自身が討取ったので、冥土の土産に贈ります。日頃の約束を違わず、私はおっつけ討死すると思います。貴殿ももはや覚悟されたほうがよろしいように思います。』と、使者に口上を申し含めた。
大谷はその使いに逢って、『因州(平塚為広)、武勇といい和歌といい、本当の武士(もののふ)である。あえなき最期、惜んでも猶あまりある。私も覚悟を決めよう」と言って、
契りあれば 六の巷に まてしばし おくれ先たつ たかひありとも
と和歌を詠み、その身、眼は見えないので、甥の僧祐玄に書かせて送った。(以下、平塚為広・戸田の戦い振りが書かれていますが略します)」
大谷吉継は、家臣の湯浅五助から平塚為広・戸田重政も討死したとの報告を受けて自害を決意し、湯浅五助に介錯を命じるとともに「首を敵に渡すな」と命じています。
「この頃までも大谷吉隆(吉継)は、轎(かご)を据えさせ、時節をはかっている所へ、家臣の湯浅五助が敵の首を提げてきて来り、乗物の前に跪(ひざまづ)いて涙を流して『合戦もはや是までです。平塚殿・戸田殿も御討死にしました』というと、(大谷)吉隆(吉継)はそれを聞いて『時間が過ぎて雑兵の手にかかって討たれるのは残念であるから、腹を切る。私の面体は悪病の為に損じていて人に見られる事を恥じるので、かねて申し付けていたように取り計らえ」と言い、また、轎(かご)から黄金一包を取り出して、残っている近習たちに「お前たちは皆討死するのも無益である。これを路銀として何方(いずれ)へ逃去ってよい。今は思い置く事ない」と言いながら、五助に『介錯せよ』と指示して肌を脱ぎ、腹十文字に掻切ると、(湯浅)五助はそのまま首を打落し、その首は三浦喜大夫が羽織に包んで、近くの田の中へ深く埋めた。吉隆(吉継)今年42歳、喜大夫もその所にて腹を切って死んだ。』
大谷吉継の最期を見届けた湯浅五助も藤堂隊に討ち入り藤堂仁右衞門高刑(たかのり)によって討ち取られ、家康が首実検をします。
「(湯浅)五助はすべて見届けて、また馬を馳出し、藤堂の軍勢に無二無三に突入して、藤堂仁右衞門(高刑)により討れた。(湯浅)五助の首を(家康の)御本陣に献じると、神君(家康)は、『湯浅(五助)は有名な勇士である。(湯浅)五助ならば欠唇(みつくち)であるはずだ』と言うので、近習の人々がその首を見ると、間違いなく欠唇(みつくち)であったので、人々が(家康の)お言葉に感心した。」
こうして、大谷吉継は、戦場で自害してその生涯を終わりました。大谷吉継の墓(上写真)は、関ヶ原の古戦場にあります。この大谷吉継のお墓についても逸話が残されていますが、長くなりましたので、また別の機会に書きたいと思います。
今日の記事は思いがけず長くなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。

