島津義弘、家康の目の前を敵中突破し戦場を離脱する(「どうする家康」182)
西軍の敗北がハッキリし各部隊が戦場を離脱し始めた中で、戦場の中にほぼ無傷で残っていたのが島津義弘率いる島津勢です。西軍の各隊が退却する中で、島津義弘は、後ろ側の伊吹山方向に逃げるか、前面にいる東軍の真ん中を突破していくかのいずれかの方策の中で、敵中突破することを選択しました。これが有名な「島津の退き口(のきぐち)」です。この島津勢の敵中突破を食い止めようとして井伊直政勢と松平忠吉勢が襲い掛かりました。この追撃戦の中で、「どうする家康」で描かれていたように井伊直政が負傷します。さらに、井伊直政とともに戦っていたと松平忠吉も負傷しました。
この「島津の退き口」については、『常山紀談』巻13や『明良洪範』の巻15や巻22にも書かれていますが、『改正三河後風土記』に書かれているものを現代語訳して紹介します。
「島津兵庫頭義弘入道惟新も散々に戦さに破れ、主従わずか千騎ばかりに討たれてしまったが、石田(三成)・小西(行長)勢が敗走するのをみて『かかる時味方が敗走する方に引き退(の)かんとするは、足手まといになってよくない。幾度も向ってくる敵を打破って通るにしかず」と下知し、(島津)中務大輔豊久にもこのようにと告げると、豊久が答えるには『我等が人数は只今(小早川)秀秋勢と合戦しているので、急に引揚るのは難しい。豊久はここで討死します。その間にあなた様は早く切り抜けて御帰国して下さい』といい残して、そのまま馬を駆けだし、(小早川)秀秋の大軍と火花を散して奮戦した。平岡石見守(頼勝)、稲葉佐渡守(正成)もこれを大将と見て、大勢にて取り込んで討とろうとした。(島津)豊久は、今はこれ迄なりと馬上に鐙(よろい)姿で踏んばって、大音声(だいおんじょう)で『我は鎌倉右大将家の後胤島津兵庫頭義弘なり。運が尽きてたった今自害する。人手にかかったのではない。後日、間違えるのではない」と言いながら、馬上で腹をかき切って、太刀の先を口に含んで馬より下に落ち貫(つらぬ)かれて死んだ。これを見て郎等80余人、皆、敵中にかけ入って思い思いに討死した。(島津)豊久の首を(小早川)秀秋の郎等笠原藤左衞門がこれを取った。この間に兵庫の入道(島津義弘)は、むらがる敵を打破り打破りして、おし退(しりぞ)いていく所を、福島刑部大輔正之(福島正則の養子)がこれを遮(さえ)って討とうとしたが、小勢のため打破られた。(中略)東軍は、島津勢を討ち留めようと右の方から突き懸った。(島津)義弘ももう討死だと覚悟して、大敵の中へ駈け入ろうとするのを見て、家老の河多盛淳入道長寿(長寿院盛淳)がこれを留めて『恐れ多いとは思いますが、私が殿のお名前を名乗り身替りとなります。その間に急いで退却して下さい』と言って『吾こそ義弘入道惟新である』と名乗って、大勢の中へ駆け入って散々に戦って討死した。この時、(島津)義弘の手勢は多くが討れ、残る兵は、もう30余騎、雑兵500ばかりになって落ちて行くところ。井伊直政は(松平)忠吉を伴って、朝から勇戦し、ほんのひと時、馬を休めていたが、(島津)義弘主従が落ち行くのを見て、(松平)忠吉が逃がすまいと馬を駆け出せると、(井伊)直政の手勢二千ばかり、そして直政が真っ先に駆けて追いかけた。(島津)義弘主従は早足で逃げて、地理を見はからい、ひしひしと折敷(おりし)いて鉄炮を撃ってきた。柏田源蔵というものが放した鉄炮が、直政の腕にあたり馬から落ちたが、浅手なので気にもかけないで、また馬に乗って手勢に下知し追撃した。(島津)義弘の二男又七郎(※島津豊久のことと思われるが島津豊久は島津家久の子)をはじめとして、従兵8人雑兵30人が討れた。石田(三成)が島津の陣営に付け置いた入江権左衞門がねらいを定めて近づいて(井伊)直政の左の高股を切った。この時、直政の馬が驚て南へ駆け出した。井伊の軍勢は主人が深手を負って退いていくと見て、主人の跡を追って引返した。(徳川軍の)旗本勢は島津を討ち留めようと進むのを、神君(家康)が見て、『体制を乱さずに引退(ひきの)く敵に追付くことはできない』と制止したので、(島津)義弘は残兵をまとめて落ちて行った。」
「島津の退き口」は、島津勢の勇猛さを語る逸話として広く語られていますが、島津勢総大将の島津義弘を逃すため、島津義弘の甥島津豊久や家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)が自らが犠牲となって討死にしています。そのおかげで島津義弘は、戦場を無事脱出することができました。島津勢を追撃した井伊直政は、島津隊の銃撃にあって負傷しています。「どうする家康」では、井伊直政が肩を負傷していましたが、『改正三河後風土記』、『常山紀談』、『明良洪範』いずれも肩を負傷したと書いています。

