石田三成、生け捕られても毅然たる態度で死に向かう(「どうする家康」183)
「どうする家康」第43回で関ケ原の戦いで敗れて近江で捕らえられた石田三成が大津城で家康と面会する場面がありました。そこで、今日は、石田三成が戦場を離脱した後、近江で捕縛され、大津で家康に面会し、処刑されるまでについて書いていきます。
『改正三河後風土記』には、石田三成は敗北が明らかになると伊吹山方面に脱出した後、草野谷(現滋賀県長浜市)、大谷山(現在地不明)、鳥上山(現在地不明)を抜け、古橋村(現滋賀県長浜市木之本町古橋)に身を隠していたが、三成探索を命じられた田中吉政によって捕縛され、大津に送られて本多正純に預けられたところまで書かれていますが、家康との面会の話は書かれていません。しかし、石田三成が捕縛され大津に護送された後に家康に面会したことが『常山紀談』に書かれています。そこで、『常山紀談』巻15の「生け捕られた武将石田三成」の項を現代語訳して紹介します。なお、石田三成が捕縛されたのは慶長5年(1600)9月22日、京の六条河原で斬首されたのは10月1日です。
まず、捕らえられた石田三成を田中吉政が丁重に扱った様子が次のように書かれています。当時田中吉政は岡崎城主でしたが、石田三成とは親しかったので丁重に暑かったと言われています。
「田中兵部大輔吉政は石田三成を生け捕りにしたが、大変丁寧に会釈をして、『数十万の軍兵を率いられたのは、知謀が優れていたことと言うべきです。戦いの勝敗は天命ですので、人のカの及び難いものです。』と、礼儀正しく言うと、三成は笑って、次のように言ったと言います。
三成はこの時、座上の柱に寄りかかり、以前から吉政を「田兵」(田中兵部の略)と呼んでいたとおり、この時も「田兵」と言って、普段と変わらなかったという。
『秀頼様のために害をなす者を排除し、太閤秀吉様の恩に報いようと思ったのだが、運が尽きてこうなってしまったことを、どうして後毎しようか。これは太閤殿下からいただいた切刃正宗(※原文では正宗となっていますが、実際は貞宗のようです。)の脇差だ。形見に進上する』と(田中吉政に)与えた。
(田中吉政は)接待役の侍を付けてもてなしたが、(石田三成は)「少しでも早く死にたい」と食べなかった。接待の侍が、「どうして兵部(田中吉政)の計らいがお分かりにならないのですか。よく身体をいたわって、最期の用意をしてください。」と申し上げると、「それであれば、最近は腹の具合が良くないから、韮雑炊(にらぞうすい)をください」と言ったので、その用意をして進めると、快く食べて横になり、いびきをかいて眠った。」
次に、大津に連れていかれた石田三成は家康の命により本多正純が警護することとなります。本多正純は三成を冷笑するかのごとく議論する様子が描かれています。
「田中(吉政)が石田(三成)を連れて大津に行くと、家康は本多正純に、三成を警護するよう命じた。(本多)正純は、石田(三成)に向かって、『秀頼公は年が若く、まだ物事の是非がよくわからない。世の中を泰平にすべき道のみ進むべきなのに、意味のない戰さを起こして、このような恥辱に至ったのだ』と言ったところ、三成は、『私が一庶民の身から領国を拝領するまでになった恩は、譬えようもないものだ。世の有様を見るところ、徳川殿を打ち倒さなければ、結局は豊臣家のために良いことにはなるまいと思って、(宇喜多)秀家・(上杉)景勝をはじめとして、味方しなかったものを、強く勧めてついにこの戰いを起こしたのだ。戦いに臨んで二心のある輩が裏切ったから、勝つべき軍に敗れてしまったのが悔しい。二心を持つ者さえいなければ、おまえたちを逆にこのように搦め捕らえたのに。志をなくなってしまった。運が尽きてしまったので、九郎判官(源義経)もさえも衣川で滅びてしまった。私が敗れたのは天命だ。』と言った。(本多)正純が、『智将は人情を計り、時勢を知るという。諸将が味方していないことも知らずに、よくも軽々しく戰さを起こしたものだ。敗戦後に自害もしないで生け捕られるというのはどうですか?』と言うと、(石田)三成は怒って、『おまえは武略というものを少しも知らない。切腹して他人の手にかかるまいとするのは端武者のすることである。源頼朝公が土肥の杉山で朽木の洞に身を潜めた時の志は、全くわかるまい。もし頼朝公が大庭に搦め捕られていたら、おまえに嘲(あざ)笑われていたろうな。大将の道を語ってもおまえの耳には人るまい。今はこれまでだ』と言って、その後は何も言わなくなった。」
家康は、本多正純と違って、石田三成を西軍の大将として敬意を払って対応したようで、次のように書かれています。
「家康の前に(石田)三成を呼び出した。家康が、『何とも、武将にはこのようなことはよくあることである。恥ではない。』と言うと、(石田)三成は表情を少し和らげて、『ただ天運がそうさせたことです。早く首を刎ねて欲しい』と言った。これに家康は、『三成はさすが、大将の器量のあるものよ。平宗盛とは大いに異なる』と言ったという。」
続いて、小早川秀秋が石田三成の様子を見に行き軽蔑されたことも書かれています。
「また一説に、中納言秀詮(ひであき:小早川秀秋)が石田(三成)の様子を見ようと席を立ったところ、細川忠興は、「何という無益なことだ」と言ったが、秀詮は聞き人れなかった。三成が秀詮を見て、「私が貴方に二心があることを知らなかったことは、愚かなことだった。だが、約束を破って義を捨てて、人を欺ざむいて裏切ったことは武将の恥辱。末の世までも語り伝えて笑うべきだ」と言った。これに秀詮は言葉も無かった。」
さらに、豊臣恩顧の武将でありながら、石田三成と敵対した福島正則と黒田長政の対応について、福島正則は罵倒し、黒田長政は労わったと書かれています。
「また、三成が大津に着いた時、本陣の門外に畳を敷いて、その上に三成は座っていた。諸将が通り過ぎた時、福島正則が、『無益な乱を起こした結果が、その有様だ』と言ったので、(石田)三成が、『おまえを生け捕って縛らなかったのは天運だ』と言うと正則は言葉もなく過ぎ去って行った。黒田長政が通った時には、長政は馬から下りて、『不幸によって、このようにおなりになってしまった。』と、(黒田長政が)着ていた羽織を脱いで三成に着せたという」
さらに、石田三成、小西行長、安国寺瓊恵三人の処刑に際して家康は小袖を与えたといいますが、それに対する三人の反応が書かれています。
石田(三成)をはじめ、小西(行長)・安国寺(瓊恵)が生け捕られて、三人の素肌に、破れた木綿の着物を着ていたことを家康が聞いて、『石田(三成)は日本の政務をとりしきった者だ。小西も宇土(肥後国) の城主であり、安国寺(瓊恵)もまた卑しむべき者ではない。戰に敗れて身の置き所のない姿になったとはいえ、大将の盛衰は古今に珍しいことではない。自分の命をむやみに捨てたりしないのは武将の心構えとするところ。 和漢(日本・中国) にその例は多い。全く恥辱ではない。その姿のままで京都中を引き回したならば、将たる者に恥を与えたことは、 却って私の恥となろう』と言って、三人に小袖を与えた。石田(三成)に見せると、『これは誰が与えたものか』と聞いた。『江戸の上様より』と言うと、『それは誰のことだ』と言った。『徳川殿』と答えると、(石田)三成は、『どうして徳川殿を尊ぶ必要があろうか』と一言の礼もしないで嘲笑っていた。
小西(行長)は、『敵対した私にこれほどのいたわり、面目ない』と、涙を落とした。安国寺(恵瓊)は何とも言わないで赤面してうつむいていたという。」
最後に、石田三成が処刑される際にも普段通りだったと書かれています。
「三成を誅殺する時、車に載せて京の六条河原に引き出したが、(石田)三成の顔色は普段どおりだったとか。また、『石田治部が天下を取ったぞ』と言うのを聞いて笑って『私が大軍を率いて天下分け目の戦いをしたことは、天地が崩壊しない間は消えることない。少しも心に恥じることはない。囃(はや)し立てなくてもいいだろう』と言ったという。」
こうして、石田三成は六条河原の露と消えました。享年41歳でした。
今回も文量が多くなってしまい申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。

