遅参した徳川秀忠、ようやく大津で家康に対面する(「どうする家康」185)
東軍が関ケ原の戦いで勝利しましたが、徳川秀忠は結局間に合いませんでした。秀忠がようやく家康に追いついたのは19日でした。昨日の「どうする家康」第44回では、数年後に遅参した秀忠を叱るという場面として描かれていて、関ケ原の戦い直後の対面の場面は直接描かれませんでしたが、秀忠がようやく追いついた際、家康は激怒していたため、すぐには秀忠と対面しなかったと言われています。
徳川秀忠の生涯を描いた幕府の公式記録『台徳院殿御実紀』(いわゆる『徳川実紀』)には、秀忠の遅参について下記のように書かれています。『台徳院殿御実紀』も国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それを現代語訳して紹介します。
「24日公(徳川秀忠)は東山道を上るようにとのことであるので、榊原式部大輔康政を先鋒として、総軍3万800余人が宇都宮を出立したので、三河守(結城)秀康が馬ではるばると見送りしたが、お互いに馬上で密談したあと別れた。そのことを知る人はいなかった。9月朔日(1日)には信濃国小諸に到着した。真田安房守昌幸は石田方なので上田城に立て籠もり道を妨げようとした。そこで、使いを出して天命の帰する所を二回にわたり諭したけれども(真田)昌幸はあえて従わなかった。それであれば上田城をまず攻め落として上洛しようと軍議一決して、6日の早朝に軍馬を染屋(現長野県上田市)まですすめた。しかし、(真田)昌幸は謀をもうけて防戦し味方は不利となった。翌日、再び攻めようとした際、本多佐渡守正信が頻(しき)りに『御父君(家康)の戦期に遅れても良いのでしょうか』と諫めて(攻撃を)やめた。ここ(上田)には森左近大夫忠政、仙石越前守秀久等を抑えに留め置いて、10日に和田峠を越えた。この時、(榊原)式部大輔康政が前駆し、本多豊後守康重が殿(しんがり)をつとめた。これより先、御父君(家康)はもう美濃の赤坂に陣を構えて、公(秀忠)が来るのを待っていた。(家康は)山本新五左衛門重成、大久保助左衛門忠益を使者として関ケ原の戦期を告げたけれども、これほど厳しい天候が続き、あちこちの河川が増水し、従う諸軍が木曽川を渡ることができず、3日間同じ所に留まらざるをえなかった。公(秀忠)は、17日信濃の妻籠で使者にあい、非常に驚き、昼夜道を速めて草津に到着したが、その時には、もう関ケ原の合戦は味方は凱歌を唱える(勝利を祝うという意味だと思われる)最中なので、急いで御父君(家康)の本陣に向かったけれども、御父君(家康)は「御不予(ふよ)」なりということで対面しなかったので、公(秀忠)をはじめ従う将兵は非常に危惧した。」
※「不予」とは辞書を引くと「予」とは「悦ぶ意」で、① 心中おもしろくなく思うこと。快く思わないこと。②帝王の病気。天皇・上皇の病気。③ 転じて、貴人や目上の人などの病気と書かれています。この時の家康の「不予」が、「秀忠の遅参をこころよく思わなかった。」とするか「体調が良くなかった」とするか二説がありますが、多くの本は快く思わなかったつまり激怒したと解釈しているようです。
『台徳院殿実紀(徳川実紀)』では続いて次のように書かれています。
「(榊原)康政が申しあげることがあって、家康の心がゆるみ、20日に大津にて対面したので、秀忠と従う家臣たちは非常に喜んだ。(一説には本多上野介正純が、家康を諫めて、『若殿が関ケ原の戦期に遅れたのは、すべて若殿の過ちではありません。私の父佐渡守(本多正信)の仕業ですので、佐渡守を罰して下さい。』と申し上げたのもこの時のことを言う。」
このように『台徳院殿実紀(徳川実紀)』には、家康が秀忠の遅参を怒っていたため、榊原康政が申し開きをしたため家康が許して秀忠と対面したとだけ簡単に書いてあります。
しかし、『台徳院殿実紀(徳川実紀)』の附録や『改正三河後風土記』には、榊原康政が家康にも非があることを迫り、上田城を落とせなかったのは秀忠の責任ではないとも述べた上で秀忠の将来も考えて弁明したとより詳しく書いてあります。そこまで書くと長文となりますので、詳しくは次回に書きます。

