榊原康政、秀忠の遅参には家康にも非があると諫言する(「どうする家康」186)
昨日書いたように、家康は遅参した秀忠に対面しようとしませんでした。しかし、榊原康政が弁明したため、家康の怒りが解けて対面したと言われています。そのことは、『台徳院殿御実紀』附録や『改正三河後風土記』に書かれていると昨日書きました。しかし、もともとは新井白石が書いた『藩翰譜』に書かれていた逸話のようです。そこで、今日は『藩翰譜』の「榊原康政」の項に書かれているものを現代語訳して紹介します。『台徳院殿御実紀』附録や『改正三河後風土記』に書かれている内容もほぼ同じです。
榊原康政は、秀忠が遅参したのには家康にも非・誤りがあると指摘します。まず、家康がなぜ前もって江戸を出陣することを知らせなかったと言い、また東山道軍が到着してから開戦しても良かったのではないか次のように詰問しています。
「(秀忠が急いで馬を早めたので、近江国草津の宿で、家康に合流した。)しかし、大御所が(家康)は内々ご機嫌がよくない事があって、3日間、対面しなかった。『これはどうなる事だ』と御家人たちは驚いた。まして東山道を(秀忠に)御供してきた人たちは非常に恐れおののいた。(榊原)康政は、夜になって、(ひそかに)、家康の御前に参上して申しあげたのは、『このたび秀忠様が御不審蒙っている事は、康政たちの罪が最も重いものです。ただし、噂では「秀忠様が、上田城を攻めおとさず、また押し通ることもなく、ことに〈海道の合戦(関ケ原の戦いのこと)〉にも間に合わなかった事を御不審ありと承りました。もし、このことについてであれば、怖れある申し事ですが、殿(家康)の御誤りがないわけではありません。さて、殿は今月(9月)朔日(1日)に江戸を出立し、同11日尾張国清洲城に入られました。そして、わずか2日で、美濃国へ陣を進められ、15日に至って、合戦が終わりました。真に父子(おやこ)が一緒に(石田)三成等を誅伐(ちゅうばつ)しようと思われるならば、あらかじめ軍勢の出発の時期を連絡いただき、また東海道からも、御使を派遣していただき、東山道の軍勢を呼び寄せるようにすべきではないでしょうか。またもうしばらく清洲城に陣を止められ、東山道の軍勢を待っていても、(石田)三成たちの謀(はかりごと)がどれほどのことがありましょうか。なぜ、軍勢をいそがせられたのでしょうか。それにもかかわらず、今にいたって、偏(ひとえ)に秀忠様の怠慢とだけ言いたてられる事は、(秀忠の)不運と申すべきことです。』と憚(はばか)る所なく申し上げる。」
これに対して、家康は、江戸を出発する前日の8月30日に使者を派遣したと説明しますが、榊原康政は、小諸で使者から聞いたのは9月7日だと答えます。そこで、使者を呼びだして質すと長雨のため通行止めとなって遅れたと答えます。ようやく、家康も事情を理解したようです。
「(家康は)『だからこそ、8月晦日(30日)に使者を派遣して、明日出発する旨を告げ、東山道の軍勢も急いで駆け上がって、戦えと言ったのだ』と言った。(榊原)康政は『さようでございますか。その使者は今月7日に小諸の陣へ来ました。それゆえに、秀忠様も驚き、道を御急いだが、普通の時であっても日本第一の難所だという木曾の細道を、大雨にもかかわらず大軍をひきいて、一日15、.6里もの距離を進軍したため、馬も人も皆疲れはててしまいました』と申し上げた。家康は「やぁ、その使者はどうして遅くなったのだ」と使者を呼んで問い質したところ「霖雨(りんう:ながあめ)が降って、ここかしこで水かさが増えて人馬の通行ができなくなり遅参しました」と申し上げた。」
※『藩翰譜』では使者の名前が書かれていませんが、『改正三河後風土記』には大久保忠益だと書いてあります。「どうする家康」第42回で、上田城を攻めていた秀忠のもとに家康の使いがボロボロの姿で到着する場面があり、秀忠が「忠益」と呼んでいましたので、大久保忠益が到着したとして描かれていたと思います。しかし、忠益は真田に取られた書状を取り返すのに時間を要したと説明していましたが、雨による増水で通行できなかったというのが『藩翰譜』に書かれている理由のようです。
続いて榊原康政は、上田城を攻め落とさなかったのは、老臣たちの責任であると弁明します。
「(榊原)康政がさらに申し上げたのは『上田城を攻めなかったのは、老臣たちが、強く諌め止めたためです。(秀忠)は、攻め破って通るべきだとのお考えがあったけれども、(家康が)老臣たちを(秀忠に)附けたのは、諫言を行い、作戦を提示しろとのことです。たとえ、(秀忠の)考えに沿えない事ですが、私達の諌めに從わっていただくのが、大殿(家康)の考えではないでしょうかと申し上げたものの(秀忠は)納得しませんでした。そのため、上田城を攻める攻めないの議論に数日を費やしました。』ということであった」
榊原康政は、さらに次のように秀忠の将来を考えたことまでも言ったと書いてあります。これこそ家康への諫言です。さすがの家康もこれには反論できなかったことでしょう。
「父子(おやこ)の中であれば、ありきたりのことについての教訓であればどれほど勘気があってもよいでしょう。(秀忠様は)お歳も青年になられた。行末は天下の事を治めるべき人を弓矢の道において父(家康)の心にかなわない者であると世間の人が侮るならば、秀忠様の恥辱だけだはありません。御父(家康)の御身にとっても恥辱ではありませんか。これ程、将来のことをお考えなさらないことこそ情けない。』と涙を流して諫めたところ、家康が理解納得して、翌日9月25日伏見の御城にて(秀忠と)対面し、〈海道の軍(関ケ原の戦い)〉の様子を話し、東山道の事も質問した。」
こうして、秀忠は無事家康と対面できました。「どうする家康」第44回では、関ケ原の戦いの数年後のこととして、秀忠の遅参に関して家康が家臣の面前で叱咤し、そのことについて榊原康政が諫言する場面がありました。その場面は、今まで説明した『藩翰譜』の記述を基にして描いたものだと思います。
このように榊原康政の家康に対する弁明と諫言があって、秀忠は家康に対面することができましたし、大きな懲罰も受けずに済みました。それを喜んだ秀忠は康政に書面を与えたと『改正三河後風土記』に書かれています。
「中納言殿(秀忠)自身が御筆をとって、『康政の今回の志し、我が家が続く限りは、子々孫々に至るまで忘れる事はない』との書面を拝領したとのことである。」
享保年間の榊原家8代当主の榊原政岑(まさみね)は、時の将軍徳川吉宗の質素倹約の方針に反して、新吉原の三浦屋の高尾太夫を見請するなど贅沢三昧の政治を行い、幕府の怒りを買い、改易の話も出たようです。しかし、結果的に姫路藩から高田藩への転封で留まりました。この寛大な措置の背景には、藩祖榊原康政の功績があったのではないかと私は考えています。

