藤堂高虎の甥高刑(たかのり)、湯浅五助との約束を守り、大谷吉継の首の在処を話さず(「どうする家康」187)
関ケ原の戦いでは多くの武将が東西に分かれて戦いましたが、戦場で討死したり自害したことが明らかになっている武将はあまり多くありません。その中で戦場で自害したことがハッキリしているのが大谷吉継です。関ケ原古戦場跡には大谷吉継の墓が建てられています。(下写真の右が大谷吉継の墓です。)
その逸話がどこに書いてあるのか探していましたが、その話が陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役捕伝』の中の「藤堂仁右衛門湯浅五助の約を変ぜす」に詳しく書かれていることがわかりました。そこで、今日は、藤堂高虎の甥藤堂高刑(たかのり)が湯浅五助との約束をまもり、大谷吉継の首のありかを話さなかったという話をします。
「9月15日申の刻(午後4時頃)頃。藤堂仁右衛門高刑(たかのり)はあまりにも息切れしたので谷水を求めて山の間に入った時、1町(約109m)ばかり先に武者一人がうずくまっている怪しい様子(を見つけ)、その場所に近づいたところ、大谷吉継の重臣湯浅五助(以下五助)であるので、仁右衛門高刑(以下仁右衛門)はこれ幸いと思い声をかけ鎗合わせをした。五助は名の知れた剛のものであるといえども今朝からの合戦にも敗れて疲れていたためか、(仁右衛門により)鎗を押さえられ、右の高股を突かれたため、五助は尻もちをついた。倒れながら仁右衛門の鎗を切り折ると、(仁右衛門が)太刀を抜きとびかかると五助は声をあげて、『待て、たったいま、山際に埋めたのは主人刑部少輔(大谷吉継)の首である。癩病で顔がはなはだ見苦しいので隠し埋めた。その方以外知っている者はいない、必ず必ず人に漏らさないでくれ。』と言った。さてさて、忠義の家臣かな。『なるほど、誰もしらないだろう。軍神に駆けて他言しない。』と言うと、五助は『さすが、藤堂高虎の甥』と大いに喜び、『そうであれば、我が首をさしあげる。』と一鎗合わせて討たれた。それより仁右衛門は五助の首を藤堂高虎の首実検に差し出すと(藤堂高虎は)大変喜び、すぐに家康の本陣に召し連れて『私の甥が有名な五助を仕留めました』と申し上げると。家康は大変喜んで『仁右衛門、比類なき手柄である。しかしながら、その方などに容易に討たれる五助ではない。どのようにして仕留めたか』とお尋ねがあった。仁右衛門は、そこで、逐一、その経緯を申し上げると再び家康は『五助のことだから、刑部(大谷吉継)の最期を見届けずに討たれることはない。』と言った。刑部(大谷吉継)が自害したあと首の行方を捜したが見つかっていないので(家康は)不審に思って、『もしや刑部の始末を五助が取り扱い、それを黙っているのかもしれない。五助に関して気がかりのことはないか』と(仁右衛門に)尋ねた。仁右衛門は『なるほど、知っておりますが、一度五助に他言しないと約束した上で鎗対決をして仕留めました。只今の御言葉は重大ですが、約束を破ることは武士としてあるまじきものと考えます。この上は不届きと仁右衛門に刑罰を仰せ付けられるようにお願いします。』と本多佐渡守(本多正信)を通じて申し上げた。(これを聞いた)家康は大変ご機嫌よく、高笑いされ、『さてさて律義な若者である。事実をそのままに言えば、和泉守(藤堂高虎)も抜群の功績となるのに。』との上意があり、御前で、御刀(備前忠好)を頂戴したうえ『仁右衛門の鎗が折れているのでこれを遣わす」と御前の脇に立っている鎗を拝領し、現在も所持している。」
こうしたことから、大谷吉継のお墓の脇には湯浅五助のお墓もありました。大谷吉継も忠義の湯浅五助が脇に眠ってくれているので安心していることでしょう。