お初の夫京極高次、大津城に籠城し西軍の大軍を引き留める(「どうする家康」189)
千姫に付き添ったお江の四女初姫を育てることなったお初(常高院)は、後に大坂の陣で大きな役割を果たしますが、「どうする家康」に常高院が登場するのかはハッキリわかりません。常高院は、常高院は、天正15年(1587)に、秀吉の命により京極高次と結婚しましたが、京極高次は、関ケ原の戦いの際に、家康に味方し大津城に籠城し西軍の大軍を引き留めて、関ケ原の戦いで東軍が勝利する一因を作りました。その功績を高く評価した家康により、戦後の論功行賞で、若狭国一国を与えられています。
その武功が『寛政重修諸家譜』の「京極高次」の項に書かれていますので、現代語訳して紹介します。
「慶長5年(1600)6月、上杉景勝征伐のため(家康は)大坂を出立し、18日大津城に到着した。(京極)高次は、(家康を)饗応し、正室(お初)をよび、妹松丸殿(松の丸殿)および弟高知(たかとも)等が拝謁した。このとき密(ひそか)に約束した事があって、吉光(よしみつ)の小脇指を拝領し、仰(おうせ)によって弟の(京極)高知を従軍させることとなり、高次自身も関東に向かうことをお願いしたところ、上方の情勢が不安なので、大津は枢要な地であるので、もし変事が起きたときには頼りにしているとの仰(おうせ)を蒙り、家臣34人(記載されている主要な家臣の名前は略す)が拝謁を許され、高次は瀬田まで見送った。」
家康は6月18日に大津城に到着し、京極高次は、家康に味方することを約束したようです。この時に、お初も家康に拝謁しています。また、お初とともに拝謁した松丸殿(松の丸殿)は、高次の妹で秀吉の側室となったことで知られています。
家康を見送った後の状況も『寛政重修諸家譜』に書かれていますが、それによると京極高次は、上方の情報を随時家康に伝えるとともに、近隣の諸大名が西軍に参加しているため、一時的に西軍に参加せざるをえない旨を連絡しています。そして、京極高次は、実際に大谷吉継が指揮する西軍の一員と北国方面に出陣し、その旨も家康に伝えていたようです。
そして、三成から北国方面から美濃へ向かえと指示があった際に大津城に戻り、そのまま籠城を開始しますが、籠城戦の状況が次のように書かれています。
「この月三成のもとから、北国方面には押えの軍勢を置いて、美濃国方面には向かうよう言ってきたので、諸将は軍を返した。高次は殿(しんがり)として一日遅れて撤退し9月2日近江国東野(滋賀県長浜市)から引きかえし、海津から船に乗って湖水を渡り3日の暁に大津域に着陣し、家臣たちの妻子をよんで、兵糧米等を城中に取入れて、井伊直政と弟京極高知の許に家臣を派遣し籠城する事を申し送ると家康から書状を拝領した。(中略)立花宗茂から「高次が籠城した」と大坂に報告があった。これを聞いた豊臣秀頼の母(淀殿)の使いとして木下備中守(重堅)が大津城にやってきた説得したものの高次は承知しなかった。6日大津の町を焼き払われ、その火がまだ消えないうちに、毛利家の武将吉川駿河守元安が逢坂山(おうさかやま)にやってきた。城兵防戰してこれを撃退したところ、瀬田から立花宗茂が攻めて来たので兵士等を城中に撤退させた。7日筑紫上野介広門、石川掃部頭(頼明)、多賀出羽守秀種、宮部兵部少輔定行その他および大坂七手組等合計4万余りが城の三方を取囲み、湖水は増田(長盛)の家臣増田作右衛門を大将として船や筏に乗って押し寄せ、浦々の船を奪って、城中の通路を遮断して攻めてきた。諸手の鉄砲が烈しくて、城壁もことごとく破壊された。それだけでなく、立花勢は長等山(ながらやま)から城中に大筒を打ち込んだ。これにより防戦が困難となった。11日、城兵たちが立花(宗茂)の陣営に夜討をかけて赤旗三本分取った。12日寄手は総堀を埋め、13日には全軍が堀に取り付いての攻撃により、一命も顧みず戦ったが、ついに防ぐことができず、本丸にまで攻め寄せられ、家臣山田良利・赤尾伊豆等が殿(しんがり)となって敵を追い払った。この時、味方が大勢討死した。」
京極高次は9月2日から東軍に味方することを鮮明にして籠城を開始します。これを聞いた淀殿の使いが大津城にやってきますが、高次は考えをかえず徹底抗戦します。西軍は 四万余りの軍勢で攻撃してきましたが、10日余りの攻撃にも持ちこたえましたが、13日になると本丸まで攻め込まれるようになりした。
続いて大津城開城の経緯が『寛政重修諸家譜』に書かれています。それによると、14日になると高野山の木食上人が開城を説得するためやってきますが、高次は拒否します。京極高次がなかなか開城しないのを心配した淀殿は、北政所と相談して、淀殿の使者として北政所の信任篤い孝蔵主(こうぞうす)が説得にやってきます。こうしてようやく高次は開城します。『寛政重修諸家譜』には次のように書かれています。
「14日高野山の木食聖人が大津城中にやってきて和議をはかろうといったが、高次は了承しなかった。そして、秀頼の母(淀殿)の使いとして、孝蔵主(こうぞうす)がやってきて和平の事を勧めた。家臣の黒田伊予も再三和議するようお願いした。このとき、家臣の内に疑わしいものが多くて、その上、近くに援兵がくる見込みもなく、8月以来関東に注進した使者はまだ帰って来ないし、(家康の)出馬の時期もわからず、かつ城も堅固でなく、小勢で大敵を防ぐことが困難であることから、(高次は)15日早朝に城を渡し、従兵7、80人を率いて、宇治橋近辺に引き下がり、ふたたび家康に拝謁する事を恥て剃髪し、高野山に入った。」
京極高次は徹底抗戦の後に開城しましたが、家康との約束を守りきれなかったということで剃髪して高野山に登ります。その後、家康からの説得にもなかなか応じませんでしたが、再三の説得により高野山から下りてきます。そして、家康は、西軍の大軍を食い止めた京極高次を高く評価して若狭国一国を与えたのでした。
「関ケ原の戦いで勝利した後、井伊直政からしばしば書状をもって下山するようにとの旨を申し送ったが、守城の役目を果たさなかったため、これに従わなかった。その後、山岡道阿弥をお使いとして派遣し下山するよう伝えたが、それでも従わなかったので、ふたたび、弟高知を呼んで道阿弥を派遣し懇ろなお言葉があったため、命令を辞退するわけにもいかなくなり、大坂城に向かい、拝謁したところ、高次が長く籠城した功績を賞賛されて若狭国一国を拝領し8万5千石余りを領し小浜城に在城した。」
大津城の戦いは、毛利元康ら毛利勢や立花宗茂などの九州勢を中心とした4万の軍勢が大津城を包囲し攻撃しました。京極高次は多勢に無勢にもかかわらず10日余り徹底抗戦し、関ケ原の戦いの前日にあたる9月14日に開城しました。京極高次が大津城に籠城したため、4万の西軍が関ケ原の戦いに参加できませんでした。特に立花宗茂は勇猛さを謳われた武将が戦いに参加しなかったことは大きな影響があったと言われています。
京極高次は、慶長14年5月3日、小浜で亡くなりました。享年47歳でした。高次が亡くなったため、以後、お初は常高院と呼ばれるようになりました。

