大坂の陣となる方広寺鐘銘事件、起きる(「どうする家康」190)
「どうする家康」第45回では、家康と豊臣秀頼の二条城での会見が描かれたあと、方広寺の鐘銘事件が描かれました。大阪の陣の直接のきっかけとなったのは方広寺鐘銘事件と言われていますので、いよいよ大坂の陣が始まることになります。二条城での家康と秀頼との会見については別途書きますが、まず方広寺の鐘銘事件について書きます。
下写真が現在の方広寺の本堂ですが、それほど大きな建物ではありません。

方広寺は、豊臣秀吉が天正14年(1586)から造営を開始した寺院です。文禄4年(1595)には南北88m、東西54m、高さ49mの巨大な大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗座像が安置されましたが、翌慶長元年(1596)閏7月13日、畿内を慶長伏見大地震と呼ばれる大地震が襲い、大仏殿と中門は無事であったが大仏は大破してしまいました。そして、秀吉は、大仏再建を行わないまま慶長3年(1598)8月18日に亡くなりました。
豊臣秀頼は慶長4年(1599)に、今度は青銅(ブロンズ)の大仏の再建に着手しましたが、慶長7年(1602)12月4日鋳造中の大仏から出火し、大仏殿も炎上してしまいました。しばらく、大仏建立の計画は動きませんでしたが、慶長13年(1608)になって、改めて事業が再開され、慶長16年(1611)6月に地鎮祭、8月に立柱式が行われました。慶長17年に約19メートルの大仏が完成し、慶長19年4月に鐘が完成した。それは、高さ3.2メートル、口径2.9メートル、銅使用量63.8トンという巨大なものでした。
慶長17年5月に、普請奉行の片桐且元が駿府に下り、家康と大仏供養の日取りや導師の相談し、大仏供養はを8月3日に行うことになりました。
しかし、7月3日に、天海僧正から、堂供養の際、比叡山の僧たちの着座が右側であれば、天海は堂供養に参加しないこと、もし、堂供養と大仏供養を別にするのであれば参加すると言ってきました。
片桐且元は早速京都に向かい、京都所司代の板倉重宗と協議し、天海僧正の意向を重んじて開眼供養と堂供養との開催は同日に行う者の開催時間を別の時間に行うこととして、その旨を駿府に伝えました。しかし、駿府側は、開眼供養と堂供養を同日に行うことについて納得しませんでした。
こうした状況の中で、7月21日、大仏殿の鐘銘が問題となりました。
鐘銘のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句が問題とされる。「国家安康」には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないか。「君臣豊楽」は豊臣を君主として楽しむというよむことができるとされました。そして、26日、鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして供養の延期が大坂城に命ぜられました。これが有名な「方広寺鐘銘事件」です。
この事件をきっかけに大坂の陣が始まることになりますが、その経緯は次回に描かれることになりそうです。

現在も方広寺には、鐘楼にこの鐘が残されています。(上写真)
そして、鐘に刻まれている「国家安康」「君臣豊楽」の2句を今でもはっきりと読むことができます。下の拡大写真を御覧ください。


