真田昌幸、死にあたって秘策を信繁に授ける(「どうする家康」191)
「どうする家康」第45回では、真田信繫が変装して世情を探る様子が描かれていました。そこで、今日は、関ケ原の戦い後の真田父子について少し書いてみます。
関ケ原の戦いで西軍が敗北したことにより、真田昌幸と信繁(幸村)は高野山に蟄居することになりました。上田合戦で徳川秀忠が率いる徳川本隊を喰いとめ、秀忠が関ケ原の戦いに遅参するという事態に追い込んだため、本来であれば、死罪も免れないところですが、真田信之が必死になって助命の働きかけを行ったため、高野山への蟄居という処罰に留まりました。
慶長5年(1600)12月に高野山に向かい、その後、九度山に配流先が変わり、九度山で10年余り過ごし、慶長16年(1611)6月4日、亡くなりました。享年65歳と言われています。
真田昌幸は、豊臣家と徳川家の戦いが起こった場合には、大坂城に入城し徳川家と戦うつもりであり、その作戦も考えていたようです。その作戦を、死の直前に次男の真田信繁(幸村)に伝えたと言われています。
その逸話は、『武将感状記』という書物の中の「真田安房守昌幸遺言の事」に書かれています。『武将感状記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それを現代語訳して紹介します。
「真田安房守昌幸は関ケ原の戦いの後、高野の九度山の麓の禿(かむろ)の宿にひそかに隠れ住んで、常に豊臣秀頼と徳川家康との戦いがあれば、大坂に味方して関東を滅ぼそうと願っていた。囲碁を好んで幸村(信繁のこと)と楽しんでいた。実はこれは囲碁で遊ぶのではなく、陣立てや人の配置を試していたのである。(昌幸は)重病となり死にそうとなった際、ため息をしながら『私には一つの極秘の計画がある。この作戦を実施せず死んでしまうのだろうか』と言ったのを、幸村が側にいてこれを聞いて『考えていることがあれば、その考えを後学のため聞いておきたい』と言ったのに対して、昌幸は、『おまえができることではない』と言って語らなかった。幸村は『わが身は不肖であるので、語り残しても甲斐がない者と日頃ご覧になっていたのでしょうか。もともと平凡で愚かであり人並言うべきでもなく、かえすがえす私自身恥じ入ります。』と深く恨んでいる様子であった。」
こうした信繁の様子をみて、昌幸は、次のようにその秘策を語り始めます。
「昌幸は『おまえが恨んではならない。私は、お前を平凡で愚かであるといって私の考えを言わないのではない。私は老巧なので他人に信頼される。信頼されれば言う事を大事にされ、考えた事が採用される。お前の才能と器量がたとえ私に勝っていても戦の経験が少ないので名声は届いていない。名声が聞こえないので大事な話も聞いてもらえないし、優れた策も採用されない。同輩たちが異論を言い立て、言っていることと心の内が違っていては何事も無益であろう。しかし、私の胸の中に思いをこめておいて無駄にするのも嘆かわしい。だから、お前のために語っておこう。三年を過ぎずに関東と大坂は合戦になるだろう。その時には大坂方は必ず私を招くだろう。招きに応じてここを出るならば私に作戦を任せるだろう。その時には兵を2万ばかりお願いして、青野原(あおのがはら:岐阜県大垣市)辺りに出張って関東の軍勢を迎え撃つ。お前はこの理由がわかるか」と言った。幸村はしばらく考えて要害の地に拠っているわけでもなく、堅固な城を守るのでもなく、隣国からの援兵に頼るのでもなく、2万ばかりの兵しかも寄せ集めの武者。関東は10倍の勇猛な軍勢を平坦な広野で防ぐことは思いもよりません」と言うと、昌幸は『私も防ぐ手段はない。しかしながら、私の武略の程度は、かねて徳川家康に見せたことなので、私が2万ばかりの軍勢を率いて道中で待ち受けていると言うと、10万20万の勇猛な軍勢であろうとも、行き当たりばったり簡単に打ち破れるとは思われない。いろいろと評議する間に4・5日は過ぎてしまうだろう。私が忍びを配置して敵を監視しつつ、軽く引取って瀬田の橋を壊してここでまた防げば、凡そ10余日、攻め上る関東からの軍勢をあちこちで引き留めることができよう。昌幸が関東の大軍を支えているなれば、畿内西国の諸将は関東の味方につこうか、大坂に味方しようかと両天秤をかける者の多くは大坂に味方するだろう。そうすれば大阪の兵は7・8万になるだろう。その時、軍勢を遣わして二条城を焼き払い、大坂城内に籠城して、城外に柵を設置し、弓鉄砲を備えて堅く守って、見張りを怠らずに敵がたとえ盛んに戦を挑んできても臆せず、しばしば、我らを挑発しても怒らず、城兵をおびき寄せようとしても、その策にのらずに包囲を長引かせれば、関東の軍勢の多くは退屈してしまい、油断が生じた時、あるいは夜討して、あるいは朝駆けして、味方の勇猛さを持続させて敵の心を悩ませれば、(関東の)大軍は兵糧が少なくなり、戦う気力が衰え、城は名城であるので、敵が怒って力攻めにすれば、柵の内から、櫓の上から目標物を打つようにすれば敵だけが毎日死んで傷つくだろう。この段階で、書状を送り、使者を派遣して、故太閤殿下恩顧の諸将を招けば、最初は関東に属した諸将も考えを変えて大坂に従う者もあるだろう、その力を借りなくてもこうした習いで、関東の軍勢はお互いを疑って必ず戦をすることはできなくなる。全軍を挙げて戦うならば、関東の軍勢は、百里も先に追いやることは簡単なことである。お前が私の志を継いで大坂に籠城し、この理屈を人々に説いても、修理(大野治長)や主馬(大野治房)は、兵術が鍛錬されていない者なので、必ず聞かないだろう。あちこちに人員を分けて、名城の要地を離れ無謀な戦いを好んで自ら滅亡するだろう。』
このように真田昌幸は、自らが考えた秘策を信繁に語りました。こうした真田昌幸の遺言を胸に、大坂の陣に際して、真田信繁が豊臣方のため、活躍することになります。

