加藤清正、二条城会見で豊臣秀頼を必死に護る(「どうする家康」192)
「どうする家康」第45回で、家康と豊臣秀頼が二条城で会見する場面がありました。家康と豊臣秀頼との二条城での会見は、慶長16年(1611)3月28日に行われました。家康は、豊臣秀頼が臣従していることを世の中に明らかにするために、上洛するように求めました。この上洛については、北政所や加藤清正や浅野幸長などの説得により、上洛および二条城での会見が実現したと言われています。「どうする家康」でもそうした場面がありました。
また、加藤清正が家康と秀頼との会見の際に秀頼の側に付き従い、常に秀頼に危害が加えられないように警護していたという有名な話があります。これらの話は、幕末の館林藩士岡谷繁実が書いた武将たちの逸話集『名将言行録』に書かれています。そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで読める『名将言行録』巻35加藤清正から当該部分を現代語訳して紹介します。
「秀頼が家康と対面する時、大野道犬(治胤:大野治長の弟)等の老臣は、対面してはならないと申し上げた。清正は『老犬(治胤)のいう事ですが、この度は、秀頼公が上京しなければ、世間では、怯弱(きょうじゃく:臆病のこと)の君と呼び、御威光は損なわれるでしょう。所詮、ご参内のことはやめられ、豊国社へのご参詣にあわせて、その日、上洛されれば、(私・加藤清正が、)始終、輿の側に控えて、二条城にて万が一悪だくみがあれば、幾万人といえども片っ端から蹴り殺し、再び大坂城にお連れしましょう。決断されませ。』と言い、(その結果、)清正の言う事に一決した。」
こうして、清正の説得により秀頼の上洛が決まりました。「どうする家康」でも、同じように清正が説得する場面がありました。そして、秀頼の上洛に際して、清正は、秀頼に禍が起きないように十分気を使い警護したと次のように書かれています。
「清正は500余人を率いて、浅野幸長とともに伏見から徒歩で付き従った。500人のうち300人を伏見に隠しおいて、残りを京都中を徘徊させ、突発事の合言葉を申し合わせておいて、清正に従って二条城に入城した家臣は一人もなかった。この時、家康の二人の子供すなわち徳川義直と徳川頼宜が迎えとして途中まで出迎え、日傘を差し掛けたところ、清正はそれを見とがめて、日傘を取り去らせた。当時、徳川家の威勢に対して、このようなことを言える人がいるだろうか。清正が秀吉の旧恩を忘れていないことからの行為だと人々は皆、感心した。」
こうして、無事、二条城での会見が終わり、大坂城に戻りました。『名将言行録』には、加藤清正が、大坂城に帰城後、何事もなく対面が終わってほっとした様子も書かれています。
「やがて首尾よく対面が済んで、大坂城に帰った後、清正は懐中から一本の短刀を取り出し押しいただき笑っていうことには、『今日、二条城で私たちが刀を渡すように言われたため、異議を言わずに刀を渡した。秀頼公のお側を離れず補佐していて、万一不慮のことがあった場合にはこの刀で一働きするため用意していた。まずはめでたく大坂城にお戻りになられたこと、私にとっても大いなる喜びをするところです』と言って退出した。淀殿をはじめ一座の男女は感涙を流して賞賛した。」
一方、家康も加藤清正の忠義の様は感じ取ったようで、家康の次のような逸話も書かれています。
「この日、家康が清正に刀を与えると、(清正は刀を)虚空に向けてこれを戴いた。翌日、家康は板倉勝重(京都所司代)を召し出し、『昨日、清正が虚空に目をそそいでいたが、その方角は、察するに愛宕山にあたる。どのような願いだったのだろうと思うので、密かに尋ねてみよ。』と言われたので、(板倉)勝重が手をまわして尋ねた。すると、この度、秀頼公が二条城で災いがないように17日間愛宕山に護摩修行をお願いしていたとのことである。家康はとりわけその忠誠に感心した。」
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