豊臣秀頼、二条城会見で家康に上座を譲り挨拶する(「どうする家康」193)
二条城会見にあたって加藤清正が豊臣秀頼をしっかり警護していたという話を『名将言行録』に基づいて昨日書きましたが、家康と豊臣秀頼との対面がどのようにして行われたかは書いてありませんでした。家康と秀頼の対面の様子は『当代記』に書かれています。『当代記』は、寛永年間に書かれたとされ、著者は家康の孫の松平忠明(奥平信康の四男)と言われています。『当代記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、それを現代語訳して紹介します。
「28日辰の刻(午前8時頃)に秀頼公は入洛し、家康公の御所である二条城にお越しになられた。家康公は庭先まで出迎えられた。秀頼公は慇懃(いんぎん)に謝意を述べられた。家康公は座敷に入られた後、秀頼公は庭先より座敷に上がられた。まず秀頼公が御成の間に入られ、その後、家康公がおでましになられた。
そして、家康が「互いの御礼あるべし(対等の礼であるべきである)」と言われたが、秀頼はこれを固く「斟酌(しんしゃく、遠慮)」して、家康公を御成の間に出るようすすめられて、秀頼公は御礼を申し上げた。」
家康は、秀頼を庭先まで出迎えていて、秀頼がお礼を述べたようです。その後、家康が先に座敷にあがり、後から秀頼が座敷に上がっています。そして、家康がお互いに対等で挨拶をかわそうと提案しますが、秀頼は、固く遠慮して、家康が上座に座り、秀頼が礼をしています。
そして、対面が終わった後は、饗応の場に移りますが、秀頼が気を使わないように簡素なものでお吸い物だけだったと『当代記』には書かれています。この席には北政所も同席したようです。
「(饗応の)膳部(料理)、かれこれ美しく仕上がっているけれども、かえって気がねをするということで、ただお吸い物まで召しあがられた。大政所(北政所の間違い)は秀吉公の北のお方であるが、この方がお出ましになり御相伴(ごしょうばん)になられた。やがて立たれて、右兵衛督(徳川義直)・常陸介(徳川頼宜)が途中まで見送られた。秀頼公は、すぐに豊国(神社)に参詣され、大仏を見られて、伏見より船でその日の酉の刻(午後8時頃)に大坂城に帰着された。大坂の上下万民は申すに及ばず京畿の庶民は、この事を悦んだ。」
「どうする家康」では、家康と秀頼の対面の場面が『当代記』に書かれているより仰々しく演出されているようではありますが、それを除けば『当代記』にとほぼ同じだったように思います。

