家康、秀頼の器量に驚き、将来を心配したという(「どうする家康」194)
二条城会見の時、豊臣秀頼は19歳になっていました。家康は秀頼とは10年ぶりの対面でした。秀頼は。心身ともに大きく成長していたようです。身体は『明良洪範』には身長は6尺5寸(約197センチ)、体重43貫(約161キロ)と書かれているそうです。そのことが『明良洪範』のどこに書いてあるかを知らべましたが、秀頼の身長や体重について書いた記事を見つけることができませんでした。(※おそらく私の調査不足だと思いますので、引続き調べてみます。)
しかし、『明良洪範』の「秀頼の遊興」の中に、秀頼が心身とも大きく成長し大変立派であるので、将来を心配した家康が本多正信に相談した様子が書かれていましたので、今日は、その話を紹介します。『明良洪範』は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますので、それを現代語訳して紹介します。
「豊臣秀頼に神君(家康)が対面した後、(本多)佐渡守正信を召して、『秀頼は賢い人物である。なかなか人からの指図・命令を受けるような様子はない。」と述べた。その話を聞いて(本多)正信は『そのことであれば、私が考えていることがあります。』と申し上げた。」
本多正信が家康に申し上げたことは次のようなことでした。
『秀頼の御台所千姫は将軍家の姫であるので、(本多)佐渡守が千姫御付きの女性たちに『すべて女性は、上下関係なく嫉妬心があるものである。秀頼公は日本の主であるので、召しつかわれる女中が大勢いなくてはならない。何としても早く男子が産まれて豊臣家の血脈がつながるように願うので、必ず美人を探し出して大勢、お側に置くようにし、それを邪魔する者がいれば女といえども我らが罰する』と堅く申し含めます。』
つまり、秀頼のお側にきれいな女性を大勢侍らせるようにしようということのようです。続いて本多正信は次のように言っています。
「また、秀頼の近習の面々に逢って『秀頼公は生まれつき賢いので、いろいろなことを気づくが、大御所様(家康)は、ことのほかご苦労に思う時には、常に猿楽(さるがく)を慰めにされて、健康第一で過ごされた。現在、お年が若いうちに何かと心遣い等の事で鬱病(うつびょう)を患われることでしょう。このことは大切な事であるので、政治向きの事などはゆるゆるとお耳にいれることにして、謡(うたい)・舞・酒宴などのこと(を楽しん)で健康が第一です。他にかけ替えのない大事の身なので御達者で成長されることこそが肝要です』と申し上げます。」
本多正信は、このように家康に正信が考える策を申し上げて、その結果、豊臣家は、本多正信のいう事を信じて、謡(うたい)・舞・酒色におぼれて滅亡したと『明良洪範』には次のように書かれています。
「もともと、人々が深い智恵のある人物だと認める本多正信がいう事なので、もっとも至極当然な言葉だといって感心し気づく人もいないので、秀頼は謡(うたい)・舞・酒食におぼれて、まつりごとなどは毛頭しらないので下情のことは夢にも気づかず、うかうかと暮らして時運とは言いながらついに滅亡した。」
豊臣家が滅んだ要因は、秀頼個人の問題ではないと思いますが、江戸時代には一部の人には、このような考えがあったのかもしれません。あるいは、そう考えるように誘導していた人がいたのかもしれません。

