豊臣秀頼、当初和議に反対するも、周囲の説得により同意する(「どうする家康」202)
徳川家康は大坂城を攻撃するとともに和議交渉も水面下で進めていました。一方、淀殿は和議には反対していました。しかし、12月16日に大坂城天守を砲撃されて侍女たちが死んだことから淀殿はそれまでの頑(かたく)な態度を替えて和議を進めるよう秀頼に勧めました。それでも秀頼は和議に同意しなかったことが『台徳院殿実紀(徳川実紀)』に次のように書かれています。
「(12月16日に)稲富(重次)が砲撃した大筒は狙いをはずさず淀殿の居間となっている櫓を打ち崩した。その音は百千の雷が落ちたようであった。(淀殿の)側に仕える女房たち7.8人が撃ち殺され、女や童が泣き叫ぶ声がうるさかった。常日頃は勇猛な淀殿も大変怖がり弱りはてて、これから和議を秀頼に熱心に勧めた。(織田)有楽(長益)と(大野)治長は、その意向を受けて、寄せ手から和議の申し出あるのを幸いとして、いずれにしても『和議すべきです』と(秀頼を)諫めるものの、秀頼は承諾しなかった。(中略)」
こうした状況の中、織田有楽(長益)と大野治長が説得しようと密談しているのを聞いた秀頼重臣の木村重成も秀頼を説得するのを断わります。
「(織田)有楽(長益)と(大野)治長が密談するのを木村(重成)が聞いて、『和議すべきであるというのは、最初片桐(且元)が申し上げたことである。その片桐の忠諫を聞かずに、今に至って、和議の話を申し上げるわけにはいかない。(木村)重成からは申し上げられない。結局、秀頼公の運が尽きたと嘆息するほかはない』と言い切って取り合わなかった。」
そこで、後藤又兵衛基次に依頼して秀頼を説得することとして後藤又兵衛は、細川元勝を通じて説得します。
「(織田)有楽(長益)と治長は仕方なく、後藤又兵衛基次にその事を託した。後藤(又兵衛)は秀頼側近の細川讃岐守(元勝)を介して『つらつらと今の形勢を考えるに、故太閤殿下恩顧の諸大名がすべて敵となってわが方に内通する者がいない。結局、味方の一方の大将と頼む織田雲生寺(織田頼長:織田有楽(長益)の長男)等が変心するという噂もあり、玉薬(銃砲弾の発射に用いる火薬)、兵糧が潤沢だとはいえ、これも限りがあることである。後詰がくるということなく長期籠城は兵法家が古今忌む事である。敵から和睦の申し入れがあるのを幸いに和平して時節を待っていれば、駿河の老公(家康のこと)は70歳を超える高齢である。それほど生きていられるとは思えない。あの御老公が亡くなった後に“会稽の恥を雪ぐこと(敗戦の屈辱を晴らすこと)”をつま先だちで待つべきだ』と諫めた。」
その上で、織田有楽(長益)、大野治長が説得したのでようやく秀頼が和議に同意します。
「(織田)有楽(長益)、(大野)治長等も、いろいろ利害を説いて諫めたので、秀頼も仕方なく和議の事を了解し、それであればそれぞれの意見に任す。しかし、最初片桐(且元)の諌めをむりやり拒んで今はこのようになってしまったこと、(片桐)且元に対して恥ずかしいことだ』と涙を落したので、側近たちも哀れさに一緒に涙にむせんだという」
秀頼は「今さら和議に応じるのであれば片桐且元の諫めた通りになってしまった」と涙を流したといいます。こうして秀頼も和議に同意したことから交渉が本格化することになりました。

