和睦交渉は、12月初めから始まり、阿茶局と常高院の会談で結着する(「どうする家康」203)
徳川方と大坂方の和議は12月18日と19日の徳川方の阿茶局と大坂方の常高院との会談によって決まりました。合戦の和議の交渉役は通常は男性(しかも僧)であることが多いのですが、女性が交渉役となるというのは異例中の異例です。これは大坂方の意思決定は実質的に淀殿が行っていたため、淀殿に直接話のできる妹の常高院が交渉役として適任であり、それに対応して側室の阿茶局が適任だと家康が考えたことによります。
和議の最終段階は阿茶局と常高院との交渉でしたが、それに至るまでは徳川方と大坂方で水面下での交渉が行われていました。水面下の交渉の担当となったのは徳川方では本多上野介正純と後藤庄三郎(光次)です。大坂方は織田有楽(長益)と大野修理治長でした。この二人を介して交渉の経緯が『駿府記』や『当代記』に書かれていますので、順に紹介します。
『駿府記』12月3日には「今夕、本多上野介(正純)、後藤庄三郎(光次)が御前において、文箱の中の一通の手紙を読む。和睦のことについて、織田有楽(長益)からの返事であった。有楽(長益)の使い村田吉蔵、大野修理(治長)の使い米村権右衛門、両使が参り、上野介(本多正純)、庄三郎(後藤光次)が返事を書くことになった。」と書いてあり、織田有楽(長益)からの返事の内容は『駿府記』に書かれていませんが、『淀殿』(福田千鶴著)によれば、大坂城内では和議に反対する声が強く難航しているとの内容だったようです。
『駿府記』12月8日には「今日、城中からの織田有楽(長益)・大野修理(治長)の返事を密かに見せた。それに対して、『この度は諸牢人を許すこと。また秀頼の国替については、いずれの国が望みか。ただし、国替は大坂城の開城いかんだ』と回答した。」と記録されています。
ここでは、大坂城に籠城している牢人たちを許してほしいと申し入れ、大坂城を開城しての秀頼の国替については、秀頼から要望があるかもしれないと書いてあります。この頃は秀頼や淀殿の頭の隅には大坂城から退去することもあったのかもしれません。
『駿府記』12月12日には「今日未の刻に城中からの(織田)有楽(長益)・大野修理(治長)からの書状を御前に置いて後藤庄三郎(後藤光次)が秘かに披露した。」と書いてあります。どのような内容であったのかわかりません。
そして、『当代記』の12月14日に、「秀頼公から四国の内の2か国を与えられれば喪大坂城から退城するとの申し出あった。これに対して大御所・将軍からは、安房・上総の両国を進上する。そして、(秀頼は)関東への下るのは全くダメとの意向であり、秀頼は固い考えがあって、(和議)は整わなかった」と書いてあります。秀頼は大坂周辺への国替は許せるが関東への国替は承服できないとの考えだったようです。
『駿府記』12月15日には「(家康が)後藤庄三郎(光次)を召して和議の手立てを問われたので、庄三郎(光次)が申して言うには、『使者が申す様子では、 城中ではすべて秀頼の母(淀殿) の命令を受けており、今また女のことであり、万事に急ぎませんので、御返事が延引している』と書いてあり、また、「淀殿は人質として江戸に下ることと諸牢人に扶持を与え、加増があるかとの旨を言ってきたと上野介(本多正純)、庄三郎(後藤光次)が言上した。(家康は)『諸牢人は、何の志があるのか。知行を与えるべきなのか。と言った。そこで、これに対する返事は遅らせることにした。』と書いてあります。これによると淀殿は一旦は江戸に人質として下ることを考えたようです。しかし、牢人に知行を与えることが和議のネックになったようです。
こうした水面下での書状のやりとりの交渉があったあとで、12月18日に、いよいよ阿茶局と常高院が対面しての交渉が開始されます。
『駿府記』12月18日では「京極若狭守の母常高院殿が城中より若狭守の陣場に出られ、阿茶局と本多上野介(正純)がそこに赴いた。申刻に両人は帰ってきた。(常高院殿は秀頼の母(淀殿)の妹である。)」とだけ書いてあります。
また、『当代記』12月18日には「女性の阿茶局が若狭衆(京極忠高)の仕寄所(陣地)に参られ、城中より大蔵卿局並び故若狭宰相(京極高次)の老女(正室)が出会って、対談しもっぱら和議のこと話された」と書いてあります。
二人の会談が行われたのは、徳川方として大坂城包囲陣の中にいた京極忠高(常高院の息子)の陣所でした。
どのような内容が話されたかは『駿府記』『当代記』ともに書かれていません。なお、『当代記』で大蔵卿局が会談に同席していたことがわかります。
そして翌12月19日のことですが、『駿府記』には「織田有楽(長益)・大野修理(治長)からの二人の使いが来て、『只今、常高院殿が若狭守(京極忠高)の陣に出られました』と申し上げた。この旨を本多上野介(正純)・後藤庄三郎(光次)が申し上げたので、阿茶局と上野介(本多正純)は彼の陣屋において常高院殿と対面した。」と書いてあるだけで、『駿府記』には、両者で合意した内容は書かれていません。
しかし、『当代記』19日には、「再び、右の女性が出会って、和議のことが決まった。大御所(家康)と将軍(秀忠)から起請文で「異変有るべからず」の旨が述べられた。城中から有楽(織田長益)の息子武蔵守と大野修理(治長)の息子信濃守が人質としてやってきた。後藤庄三郎(光次)と本多上野介(正純)が人質を請け取って、上野介(本多正純)の陣所に同道した。和議の内容は、『①総構ならびに三の丸は破却する、②秀頼公も淀殿も関東下向(参勤および人質)はない、③領知も以前の通り、④本丸・二の丸は前々の通りで破却の沙汰はない』であった。」と書いてあります。
徳川方と大坂方の和議の内容は、『定本徳川家康』(本多隆成著)には「諸史料からまとめると①本丸を除き、二の丸・三の丸などは皆破却する。②淀殿は人質にならなくてよいが、大野治長・織田有楽から人質を出すこと。③秀頼とその知行地については保障すること、④秀頼が大坂城を立ち退くというのであれば、どこの国でも望み次第とすること、⑤籠城した諸牢人たちに対しては咎め立てをしないことなどであった。」と書いてあります。
そして、大坂方の人質として、織田有楽(長益)の五男武蔵守(尚長)(年19)、修理(治長)の次男大野信濃守(治安)(年17)の二人を徳川方に出しています。これにより、和議が完全に固まりました。