大坂城の内堀の埋立は、家康の謀略でなく、当初から大坂方が諒解していたものらしい!(「どうする家康」204)
大坂冬の陣の和議が整いました。そして、徳川方は、和議内容に従って大坂城の外堀の埋立作業を開始したが、そのまま、内堀まで埋立を開始し、これに驚いた豊臣方の抗議にもかかわらず、大坂城の惣構の破却、堀の埋立を行ったと言われています。そして、それは家康の謀略であったと言われていました。「どうする家康」でも大野治長が「卑怯なまねをしている」と言っていました。しかし、最近の研究者の間では、内堀の埋立まで豊臣方も諒解していたとする説が有力となっています。そこで、その説を主張する光成準治氏、曽根勇二氏、笠谷和比古氏の説を紹介します。
⑴光成準治氏は、『天下人の誕生と戦国の終焉』p182で「豊臣氏は講和に傾いた。結局大坂城の「惣構えの堀・二の丸の堀いずれも埋め候て、本丸ばかり」にする(『本光国師日記』)という条件で、講和が成立した。なお、二の丸堀を埋めることは違約で徳川方の罠(わな)にはまったとする説は誤りである。当初から本丸のみとする予定で、豊臣氏もそれを受諾していたのであるが、この条件を受け入れた段階で、豊臣氏の命運は尽きたのも同然であった。」と書いています。
そして、同じ見解が書かれている参考文献として、曽根勇二氏の『敗者の日本史⑬大坂の陣と豊臣秀頼』と笠谷和比古氏の『戦争の日本史⑰関ケ原合戦と大坂の陣』が紹介されています。
⑵曽根勇二氏は、「敗者の日本史⑬大坂の陣と豊臣秀頼』p172に「このような講和内容(※講和内容は略します)だけではなく、さらに著名な大坂城の堀の埋め立ても加わった。これについては、12月20日、常高院、二位局、饗庭(あえばの)局の3人の女性は、秀頼の使者として茶臼山の家康陣所まで赴いて、家康からの誓紙を受け取った。これには血判も据えられたが、堀の埋め立てに関する条項はない。しかしその付帯事項として、『12月20日、城内の二の丸石垣・矢倉・堀以下は、秀頼の方で人数を出して、これを壊して埋めることを常高院・二位局・饗庭局に申上げ、とくにこれは入念に崩すようにし、城の本丸だけを残して、その奉行は京極氏が担当することも申し渡す』 (『大坂冬陣記』)とある。 大坂城の本丸だけを残し、他はすべて破却することは、当初からの了解事項であったのである。他の古文書でもこのことは確認できるが 二の丸・三の丸の破却は、当初は豊臣氏の手で行うことになっていた。この工事がなかなか進捗しないので、一挙に徳川方が工事を進めたというのが実情である。」と書いています。
つまり、曽根勇二氏は、堀の埋立は当初から豊臣方が了解していて、二の丸・三の丸の破却を豊臣氏がやることなっていたが、スピードが遅いので徳川方が行ったのだと主張しています。
⑶笠谷和比古氏の説は『戦争の日本史⑰関ケ原合戦と大坂の陣』p238に非常に詳しく説明されています。
まず、「和議の条件として大坂城の破却が挙げられ、『城中二丸石垣・矢倉・堀已下、秀頼より人数を以て、これを壊し埋むべし』としている。」と書いて、大坂城の堀の埋立は、和議内容の中ではなく和議の条件となっていたとしています。
そして、大坂城の堀の埋立について、和議では、外堀だけを埋める約束であったものを、外堀埋め立て工事の余勢をかって、豊臣方の制止をも無視しつつ強硬的に内堀まで埋め立ててしまったというエピソードは、「『大坂御陣覚書』『幸島若狭大坂物語』『元寛日記』『翁物語』などかなり多くの書物に記されているために、一概にしりぞけがたいところもあるが、これらはあくまでも後代に記された物語であり、この堀埋め立て工事に関する当時の第一次史料の中には見えないことなのである。」と書いてあります。
そして、笠谷和比古氏が示している第一次史料である①慶長19年12月26日付で細川忠利が国元家臣に宛てた書状、②浅野忠吉の慶長19年12月26日付けの紀伊寺院宛書状には堀の埋立が当初から予定されているように書かれています。
また、『大坂御陣覚書』という史料には「二の丸・三の丸の破却については豊臣方の手でおこなうはずであったけれども、なかなかその工事が進捗しなかったので(当然のことだろうが)、遠国から来ている大名の家来たちが長期在陣にくたびれて、工事をはかどらせようと申し出て、諸大名の人夫を総動員して、二の丸・三の丸の塀・櫓まで打ち壊して堀を埋めたとしている。」と書いてあるそうです。
さらに、この工事に関係した幕府および伊達政宗、細川忠利ら諸大名の往復書状等の第一次史料を見たときにも、豊臣側との間でトラブルが発生しているような形跡を認めることができないそうです。
しかも「二の丸・三の丸の埋め立て工事というのは、前後一カ月近くを要した大掛かりなものであり、豊臣側が止める間もなく一気に押し切って埋め立てたという筋合いのものでもなかったのである。」
こうしたいくつかの根拠を基に笠谷和比古氏は「これらの状況から見るに、惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸・三の丸の内堀を埋め立てて、これらのエリアを壊平(破却し平らにすること)するというのは、豊臣方も諒解していた当初からの和議条件であったと解されなければならない。徳川方が惣堀という言葉にことよせて、だまし討ち的に内堀を強行的に埋め立てたとしてきた従来の通念は改められなければならない。」と結論づけて書いています。
その上で「内堀までの埋め立てを受け入れ、二の丸・三の丸の壊平を行うというのは豊臣方にとって自殺行為ではないかと思われるけれども、結局、豊臣方にとっては局面打開の展望が見えぬままに追いつめられていたということであろうし、何とか時をかせぎつつ、家康の死を待っことで状況の一変を計りたいというような希望的空気が支配的になっていったことによるものであろうか。埋め立てられた堀は、ほとばりの冷めた時点で掘り返せばよいという含みも当然にあったことであろう。」とも書いています。
「どうする家康」でも大野治長が「どうせ掘り返せばよい」と言っていたことを思い出します。そうであったかもしれないと思います。

