家康、信濃一国を与えるとして、真田信繁を味方に誘うが、信繁はこれを拒絶する(「どうする家康」207)
家康は、真田丸で徳川方が大敗しため、真田信繁をなんとか徳川方の味方にしようと考えました。そこで、大坂の陣に徳川方として出陣していた真田信繁の叔父真田信伊(のぶただ)を介して働きかけます。しかし、真田信繁はこの誘いを断りました。この話は、「どうする家康」では描かれていませんが、今日は、この話について書いてみます。
真田家は、関ケ原の戦いの際に東軍に味方する真田信之と西軍に味方する真田昌幸・信繁父子に別れました。大坂の陣では真田信繁は大坂城に入城しましたが、徳川方の真田信之本人は病気のため出陣せず、長男の信吉と次男の信政が代わりに出陣していました。そして、信之・信繁兄弟の叔父である真田信伊(のぶただ)も徳川方として出陣していました。信之が出陣していれば、信之が信繁の勧誘の役を任せられたとも思いますが、信之が出陣していないため、信伊(のぶただ)が勧誘の役を命じられたと思われます。信伊(のぶただ)が信繁を徳川方に味方するよう誘ったものの信繁が断ったという話は、『名将言行録』巻之四十の「真田幸村」の項に書かれていますので、『名将言行録』を現代語訳して紹介します。
「真田隠岐守信伊(のぶただ)は、幸村の叔父であるが、家康の内意でもって、幸村のもとに来て言うには「その方の戦に関する智謀はほかの人に勝っている、その名声は天下に聞こえている。秀頼公から別れるならば、信濃国で3万石を与えると言うが、この考えはどうか」というので、幸村は『まずもって、一族の好み(よしみ)かたじけなく存じます。しかし、私は、さる慶長5年に(徳川家の)敵と相成り、その後落魄して高野山に登り、かろうじて命を永らえてきました。そうした時、秀頼公から召し出され領知などは頂戴していませんが、多くの人(軍勢)を預り、持ち場の担当を命じられ、大将の称号を許されたことは、知行よりありがたいことです。そうであるので、約束を変えて(徳川家への)味方に参ることはできません』と言ったので、信伊(のぶただ)は『何をさておき武士は忠義が大切である。約束を違えるのは人の道ではない。しかし、私もこのようなことを言って、そなたを味方に入れようとするのは、私の忠義である。』と言って帰った。
信伊(のぶただ)は、その旨を(家康に)申し上げると、家康は『そうはいっても、惜しい武士である。どうにかして命を助けたいと思ううえでの考えであるが、再び(信繁のもとに)行って、信濃一国を与えるので味方になるように尋ねてこい』と命じられて、信伊(のぶただ)は、再び幸村に対面し、家康の言葉の通り話すと、幸村はこれを承って、『さてさて、ありがたい仰せです。私のような不肖の武士に一国を賜るとは。生前の面目は言語に絶します。しかし、一旦約束したことの重さに較べれば、信濃一国は言うに及ばす日本国を半分賜るとしてもひるがえすことは難しいです。特別に今回の戦さで勝利しようというのではなく、幸村は初めから討死と覚悟しておりました。しかし、残念なことに和睦になりました。ただ、いつまでも戦さがあるうちは心の底から心を替えず秀頼公に味方します。もはや再びお会いすることはありません。またのお越しは御無用です。」というので、信伊も、この上は仕方なし、これが今生(こんじょう)の暇乞いである。』と言って、涙を流して帰っていった。そして、この旨を復命すると家康は『さてもさても不便(ふびん)なことであり、日本一の勇士である。父安房守(真田昌幸)に劣ることはない。』との賞賛があった。」
真田信繁は、豊臣家のために討死する覚悟で大坂城に入城していたようで、家康の好条件での誘いに全く乗らずに拒否しています。こうしたことが江戸時代以降、真田信繁の人気・評判が高くなった要因かもしれません。

