加藤清正、家康に誉められて慎重に行動する。(「どうする家康」206)
大坂の冬の陣から少し時間が遡ることになりますが、家康は、成長しつつある豊臣秀頼をどう処遇するかの課題を処置するにあたって、加藤清正、福島正則、浅野幸長たち豊臣恩顧の武将たちに気を使いすぎるほど気を使っていたようです。
『名将言行録』巻五十二の本多正信の項に加藤清正に気を使っていた逸話が書かれていますので、紹介します。
「家康が、ある日、二条城で物語りをしている時、『現在、全国の侍を眺めてみると加藤肥後守(清正)に続く者はいないだろう。』と言ったので、(本多)正信は寝たふりをしていたが、眼を開けて『只今、殿が誉めたのは誰のことですか?』と聞くと、家康は『加藤肥後守(清正)のことだ。』と答えた。(本多正信は)『それは太閤殿下の代に虎之介と言った人のことですか?』とまた言ったので、家康は『加藤主計(清正)のことだ。』と言った。(本多)正信は『年寄なので今のことを忘れてしまいました。殿は武田家、上杉家、織田家の人たちのこと、いずれも良くご存知で、有名な武士も数多いのに、加藤肥後守ほどの人物は日本にはいるまいなどと言うことは、加藤肥後(清正)をよくよく有能な人物と見たのでしょう。殿がさように人を誉めることを聞いたこともありません。加藤(清正)のためには、ことのほか名誉なことですなぁ。』と言うと、家康は『その方などが伝え聞くより、私のほうが良く知っている。加藤肥後守ほどの者は、特別のことが起きない間は、西国のことは彼に任せておけば心配はないけれども、一つの欠点があるために頼みがたい。』と言った。正信は、これを聞いて『その欠点というのは如何なることでしょうか?』と言うと、家康は『危うき心(不安定な心という意味か?)がある。そのような心さえなくて、落ち着いた心さえあれば、彼に続く者はないだろう。』と言ったので、正信は『その不安定な心あって強すぎるのは大きな欠点です。勝頼などは、危(あやゆ)きて強すぎたので、遂には滅んでしまった。能力のある武将であるのに大きな欠点があって惜しいことだ。』言った。その席に京都の町人たちも参加していて聞いていたため、(加藤)清正にすぐこのことを知らせた。清正はこの話を聞いて、『さては、家康公は私を危うき者と見ているのか』と了解して、それからは万事物事を慎み深くして、軽率な行動・考えを押さえたという。」
続いて、家康がなぜ加藤清正を誉めたかについて本多正信が謎解きをして本多正純に説明したことが次のように書かれています。
「清正が亡くなった後、正信の子正純が父に向かって、『先年、大御所(家康)が日本には加藤肥後守(清正)ほど、武勇が優れていて万事に行き届いた有能な武士はいまいと仰った。徳川家には歴戦の武功の優れた者が多いのに、なぜその者たちを誉めずに加藤(清正)を世に稀な人物のように誉めたのは不思議なことです。』と言ったので、正信がそれを聞いて『そのようなことはその方らが理解できることではない。その仔細は肥後守(加藤清正)を有能な者として、本気で誉めたのではない。大坂に秀頼公が在城しているため、自然と肥後守は西国の大名を誘って秀頼公に味方すると関東の為には非常に煩わしいことになる。そこで肥後守(加藤清正)を誉めたのである。軽率な心さえなければ、西国のことは彼に任せたいと述べたので、その席に参加していた町人たちがこのことを聞いて肥後守(加藤清正)に知らせてから、肥後守(加藤清正)はこのことはもっともなことだと思って軽率な行動がないようにしていたため、肥後守(加藤清正)の代には危うき事を起こさずに死んだ。これは偏(ひとえ)に大御所(家康)のお知恵・武略である。それを本当のことと思って不思議に思うほどの知恵では全国の秩序を保つことなどできない。あらゆることによく気づいて。たとえできないことであってもなんとか工夫せよと(本多)正純を叱ったという。』
家康と秀頼の二条城会見のとき、身を捨てても警護しようとした加藤清正、浅野幸長、さらに福島正則が生きている間には、これらの豊臣恩顧の大名が味方をしてくれるかどうか不安であったため、家康は慎重でした。
その頃の徳川家譜代の大名では、井伊直政は慶長7年、榊原康政は慶長11年、本多忠勝は慶長15年に亡くなっていて、戦いの経験が少ない第2世代に移っています。万が一豊臣家と戦うこととなった場合、加藤清正、浅野幸長、さらに福島正則が豊臣家の味方をすれば、その軍事力は強力なものとなり、徳川軍が勝つ保証はありません。ですから、家康も、彼らが存命中は軽々なことはできなかったと思われます。
しかし、加藤清正は、二条城の会見の半年後の慶長16年6月に50歳で急死しており、浅野幸長は 慶長18年8月に38歳でなくなっています。
方広寺鐘銘事件が起きたのは、慶長19年7月のことです。

