真田信繫、和平の合間に故郷上田に近況を知らせるとともに別れを告げる(「どうする家康」207)
徳川方と大坂方の和議が整って、家康は牢人たちを召し放させたいと思っていましたが、大坂方は、牢人たちを召し放すことはしませんでした。そうした中、冬の陣を戦った牢人たちは、大坂に留まっていました。真田丸の戦いで徳川方に大きな被害を与えた真田信繁も大坂城に籠城していました。
そんな時期に、真田信繁が故郷上田にいる実姉村松殿、そしてその姉の夫小山田茂誠(しげまさ)・息子之知(ゆきとも)に出した手紙が残されています。その手紙には、当時の真田信繁の心情が記されていて非常に興味深いものがあります。
そこで、今日は、真田信繫の書状を現代語訳して紹介します。この真田信繁の書状は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『戦国叢書』に収録されている『左衛門佐君伝記稿』に収録されています。
最初の書状は、慶長20年(1615)正月24日付の手紙で、姉の村松殿に出されたものです。姉の村松殿は真田昌幸の長女として生まれ、武田家旧臣の小山田茂誠(しげまさ)に嫁ぎました。武田家が滅亡した後は小山田茂誠(しげまさ)は真田昌幸に仕えていました。
「幸いなことに好い便がありましたので、一筆申しあげます。さてもさてもこのたびは思いがけないことで戦さとなって、私たちも大坂に参っております。さぞかし(大坂城に籠城したことにより真田家に迷惑が掛かって)不届き千万なこととお思いでしようが、まずまず無事に戦さも終って私たちも死なずにすみました。お目にかかってお話ししたいとも思います。明日にも情況がかわるやも知れませんが、いまのところは何事もなく平穏な日日てす。主膳殿(小山田之知) にも再々会いましたが、こちらが取り込んでいましたので静かに話し合うこともできませんでした。こちらも何事もありませんので、ご安心下さい。近况を詳しく申しあげたいのですが、使いの者が(立ったまま便りがないかと申し入れている状況で)急いでいますので急いで書いています。改めて手紙を差しあげたいと思っております。かしく。正月24日 むらまつ(さまへ)」
この手紙では、大坂城に信繁が入城したことで故郷上田の真田家に迷惑がかかっていないかと心配していて、信繁の故郷への思いやりとやさしさがよくわかります。
この手紙を出した約2か月後の3月10日付で、真田信繁は、今度は、姉村松殿の夫小山田茂誠(しげまさ)・息子之知(ゆきとも)宛に手紙を送っています。文を読むと、小山田茂誠(しげまさ)から送られてきた手紙の返事だと思われます。小山田茂誠・之知は、大坂で和議が整ったため、この頃は国許に居たのだと思います。なお、この手紙がおそらく小山田家に送られた信繁最後の手紙となったものだと思います。
「遠いところを御使者と御手紙を賜り、ありがとうございました。そちらはお変りなくお過ごしの由を承り満足いたしております。こちらも無事に過ごしていますのでなにとぞ御安心ください。私たちの身の上のこと、殿様(秀頼) の御寵愛はひととおりではありませんが、なにかといろいろと気遣いのみ多いことてす。一日一日と明日をも知れぬ暮らしを過ごしております。お目にかかってでないと詳しくは申しあげられないので、なかなか、手紙では詳しくは申し上げられません。こちらの様子は御使者の方が申しあげることでしよう。今年も戦さがなく静かであれば、お目にかかってお話を承りたいと思っています。承りたいことが山のようにありますが、さだめない浮世ゆえ、一日先のことはわかりかねます。私たちのことは、どうか浮世に生きている者とはおぼしめし下さいませんように。恐々謹言 小壱岐(小山田壱岐守茂誠)様、同主膳殿(小山田主膳正之知)様」
この手紙を読むと、真田信繁は、真田丸での戦いでの勝利などから秀頼から篤い信頼を得ていたことがわかります。しかし、その一方で、城内の武将たちから嫉妬され気を遣うことが多かったようです。(赤字部分)
また、和平が壊れ戦いが再開されれた場合は、討死を覚悟していて、生き残ることはありえないと考えていることがわかります。(ピンク色部分)そして、その覚悟を示すことで別れを告げているようにも感じます。

