千姫からの助命嘆願、秀忠は秀頼と淀殿に自害を命じ、家康はそれを黙認する(「どうする家康」208)
「どうする家康」もついに最終回を迎えました。最終回は大坂の夏の陣から家康の死までが描かれていました。今回についても、いろいろ書いていこうと思いますが、今日は、千姫の大坂城脱出と千姫による秀頼・淀殿の助命嘆願について書いてみます。
大坂夏の陣は慶長20年(1615)5月5日に始まり5月7日は結着がつきました。5月7日になると大坂方の敗北は必至となり、放火により大坂城の台所から出火し大坂城本丸は炎に包まれました。秀頼や淀殿、千姫たちは、山里丸に避難しました。こうした状況の下、千姫は大野治長の手引きで大坂城を脱出しました。
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『徳川実紀』には「秀頼の北方(千姫)は秀頼母子の助命を請うため城を出た。その際、坂崎出羽守成政(直盛)と途中で出会い、茶臼山に護送した。」と書いてあり、千姫は、途中で坂崎直盛に出会い、その誘導により、茶臼山の本多正信の陣に引き取られました。
千姫は秀頼と淀の助命を嘆願しました。それを受けて、家康は秀忠の判断にまかせるとし、秀忠は、秀頼・淀君に対しても厳しい態度で臨み、助命嘆願を拒否しました。
『徳川実紀』には、「大野治長も、家臣の米村権右衛門に秀頼母子の助命を願った。(家康は)将軍家(秀忠)の判断に任せると言って、米村を後藤庄三郎光次に預けた。(中略)御所(秀忠)より安藤対馬守重信を使者として、帯曲輪に籠っている秀頼母子ならびに付き従っている男女全員に自殺するよう命じたことを(家康がいる)茶臼山本陣に通知した。午の刻(正午頃)、井伊掃部頭直孝に秀頼母子以下全員自殺するよう命じた。」と書いてあります。秀頼と淀殿を助命しないと最終的に決定したのは「どうする家康」で描かれていたように秀忠だったようです。
千姫が嘆願した秀頼母子の助命に対する家康・秀忠の対応は別の資料でも確認できます。毛利一族で、当時長府藩主であった利秀元の手紙には「大御所様は、将軍様次第と御意を成され候。将軍様御意には、はや一度ならぬ事、早々に腹をきらせ候へのよし」(『萩藩閥閲録遺漏』より)と書かれています。
現代語訳すると、「大御所様(家康)は、将軍様(秀忠)の意向次第と言い、将軍様(秀忠)の考えは早々に腹を切らせろという意向だったようである。」となります。
そして、秀頼、淀殿たちは、自害しました。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「5月8日、大坂城中の焼残りの唐物倉(からものぐら)に秀頼ならびに御袋、大野修理、速水甲斐守以下付女中衆余多(あまた)籠居し、降を乞う。井伊掃部、安藤対馬検使として相詰め、倉へ鉄砲を放ち掛け、いづれも残らず生害、火を掛くる也」と書いてあります。秀頼と淀殿と一緒にいた人々は全員死亡したようです。

