大坂夏の陣開戦! 道明寺の戦いで後藤基次、八尾・若江の戦いで木村重成が討死(「どうする家康」209)
大坂夏の陣は、慶長20年5月5日に始まり、5月7日に大坂城が炎上落城し、3日間で結着しました。「どうする家康」最終回では、7日に起きた真田信繁が奮戦した天王寺の戦い、そしてその後の大坂城の炎上落城が描かれましたが、5日6日の両軍の動きは描かれていませんでした。今日は、5日と6日の動きについて書いてみます。
5月5日、大御所家康は二条城を出発し、将軍秀忠は伏見城を出発し、淀川左岸を川沿いに南下し、京街道を進み河内をめざしました。一方、家康・秀忠が卿を出発する前に奈良方面に集結していた別働隊は大和河内国境を越えて大坂城を目ざしました。
大坂方は、5日夜半、後藤基次、真田信繁らは大和方面軍を迎え討つため、道明寺(大阪府藤井寺市)へ向けて出陣しました。また、木村重成、長宗我部盛親らは京街道から進んで来る家康・秀忠の本隊に決戦を挑むため、八尾(大阪府八尾市)、若江(大阪府東大阪市)へ進出しました。この両軍が激突して起きた戦いが「道明寺の戦い」と「八尾・若江の戦い」と呼ばれています。
「道明寺の戦い」で大坂方の後藤基次は、大和から攻め込んだ徳川方の伊達政宗、本多忠政、水野勝成らの軍勢と戦いました。
『名将言行録』では、「軍議の時、基次は関東の大軍を引き受けて、平場(平野)での戦いは勝ちそうにない。東軍は必ず大和路から押し寄せてくるだろうから、その先鋒が山道の半ばを過ぎようとするところを、一気に突きかかかれば、十中八九は勝利するだろうと主張した。そこで、平野(ひらの)での先鋒を任されたので、5日の夜半に松明数千を灯して、大和街道に向かった急ぎ藤井寺(大阪府藤井寺市)に到着したけれども、後巻きの軍勢が遅れたので、二の手の明石掃部全登(てるずみ)に催促して、藤井寺を出発し、誉田(こんだ)八幡宮(大阪府羽曳野市誉田)に到着し松明を消した後、道明寺河原に出撃した。秀頼は、このことを聞いて、真田(信繁)、薄田(兼相:すすきだかねすけ)、井上(時利)等の応援部隊に、早々に支援に向かうよう命令した。」と書かれています。後藤基次が先鋒として徳川方の軍勢と戦いが6日午前4時頃から始まりましたが、後藤隊を支援する真田隊等の到着が遅れたため、当初は後藤隊は優勢でしたが、多勢に無勢で後藤隊は敗勢となり、後藤基次もついに討死しました。その後、遅れていた真田信繁隊と毛利勝永隊が正午頃に到着して伊達政宗隊と戦いましたが大坂城から撤兵命令が届き退却しました。「どうする家康」冒頭で「後藤又兵衛、道明寺表で討死した!」というセリフがありましたが、それが、道明寺の戦いでの後藤基次の討死を指しています。後藤基次は大坂方の有力武将でしたので、彼の討死は大坂方にとって大きな痛手でした。また、この戦いで大坂方の武将薄田兼相(すすきだかねすけ)も討死しています。
一方、「八尾・若江の戦い」は、家康と秀忠が率いる徳川方の本隊と大坂方の木村重成隊・長宗我部政親隊により大坂城の東側にある若江(大阪府東大坂市)と八尾(大阪府八尾市)で起きた戦いです。徳川軍は東高野街道を進みましたが、に大坂方の木村隊と長宗我部隊が布陣しているのを発見し、徳川方の先鋒の井伊直孝隊・藤堂高虎隊との間で激戦が始まりました。当初は木村重成隊が優勢でしたが、しだいに敗勢となり、この戦いで木村重成は討死しました。この6日の戦いにおいて、大坂方は、後藤又兵衛基次、薄田兼相(すすきだ かねすけ)、木村重成という3人の有力武将が討死し大打撃を蒙りました。

