秀頼、信繁の要請により出馬しようとするも、反対があり出馬を取りやめる(「どうする家康」211)
天王寺口で、真田信繁が奮戦し、家康の本陣を攻めている頃、豊臣秀頼は大坂城の桜門に出馬し、さらに城外に出馬しようと準備していました。そこに真田信繁から、出馬の要請がありましたが、城内では、真田信繫が徳川方に寝返るのではという疑いを持っている者がいて、そうした人たちの反対論があり、秀頼は出馬を取りやめました。真田信繫は、秀頼からの信頼は篤かったものの、その周辺の側近からは信じられていなかったようです。『徳川実紀』には次のように書かれています。
「7日の朝に至り、寄せ手は、岡山から天王寺口にかけて、平押しに充満した。城中は案に相違したためあわてふためいて、秀頼も出馬しようとして故太閤殿下の遺物の旗・馬印を陳列し桜門まで出馬し、先鋒の注進を待っていたが、大野治長は茶臼山に行って、真田幸村にあって軍略を聞いた。幸村は『この上は秀頼公に早々御出馬をおすすめ下さい。御出馬になれば全軍の勇気百倍となります。(明石)掃部助全登(てるずみ)を間道からひそかに寄せ手の後ろに回り込ませ、駿府老公(家康)の本陣を不意に襲わせれば勝利は疑いありません』と言った。(大野)治長は、この計画を良しとして、明石(全登)にその旨を申し送り、明石(全登)が寄せ手の後ろ側の陣に着く時を待って、天王寺口も戦いを始めると示し合わせて、治長は、その計略を秀頼に伝えるために城に帰った。」
こうして、大野治長は大坂城に戻りました。しかし、大野治長が城に戻ったことが、前線の軍勢が敗れたので戻ると大坂方の将兵に勘違いされたようで、これも大坂方にとっては大きなミステイクであったと思われます。次のように書かれています。
「(真田)幸村は新参の者なので、今は全軍の大将となっても城中では信義がまちまちなので、その疑いを消すため一子大助に謀(はかりごと)を授けて、人質のつもりで城に向かわせた。この地に出張っていた城兵たちは、(大野)修理(治長)も(真田)大助も城に入るのをみて、『さては逃げ支度をするのか』と疑って、兵卒は皆、昨日の道明寺、若江、八尾での敗れたことに倣って、色めき立ち騒ぎ立ったところに越前(松平忠直)の大軍が押し懸かったので、茶臼山の備えはたちまちに敗れ、(真田)幸村も討死した。天王寺口の毛利勝永の軍勢も、(当初の)計画を違って戦いを始めたので、明石(全登)が(家康の本陣の後ろから奇襲するという)計画も失敗となり、途中から引き返し討死した。」
ここでは、真田信繁が秀頼の側近たちから裏切るのではないかと疑われていたということも書かれています。武略に優れた者であっても本当に信頼されていなければ本当の力を発揮することはできませんので、その点では真田信繁は不幸であったといえますし、家康にとっては幸いであったといえると思います。
続いて、真田信繫を信頼していた秀頼は、信繁の計略に従って出馬しようとするも、信繁を疑っていた者たちから出馬を引き留められてことが書かれています。
「(大野)治長は城に帰り、秀頼に真田(信繁)の計略を告げたので秀頼が出馬しようとした時に、城中に裏切り者がいて、秀頼が出馬すれば、その跡で城に放火し寄せ手を引入れるという噂があり、あるいは、まもなく寄せ手から和議の使者が来るという噂があったため、秀頼も不本意ながら出馬を引き延ばしている間に、天王寺口・岡山筋の城兵はみな敗北し、真田(信繁)・明石(全登)も討死したと聞えてきたので、秀頼も出馬して城外で討死しようとしたのを、速水甲斐守守之が『乱軍の中に御出馬されても仕方ありません。もし、城が落ちたらその時に御自害すべきです。』と諫めたので、秀頼も桜門から帰った。まもなく、城中から火が出て燃え始めたので、よんどころなく月見櫓・蘆田櫓から山里(丸)の櫓に移られた。」
秀頼が出馬すれば、徳川方は相当の被害を蒙ることとなったと思いますが、秀頼が出がしなかったことによって大坂方の敗北は決定づけられたといえるでしょう。
そして、本丸が燃え上がったため、秀頼は淀殿たちとともに山里曲輪に移動し、そこで最期を迎えることとなります。

