松平忠直、真田勢を撃破し大坂城一番乗りも果たし、家康から誉められる。(「どうする家康」)
慶長20年(1615)5月7日の戦いで真田信繁が勇猛果敢に戦ったことは前に書きましたが、この真田信繁に真っ向勝負を挑んだのが越前勢でした。越前勢は真田隊を撃破し大坂城への一番乗りも果たしました。真田信繁が討ち取られたのも越前勢の西尾宗次によってです。この越前勢を率いたのが松平忠直です。松平忠直は、2代将軍徳川秀忠の兄松平秀康の嫡男でした。松平秀康が慶長12年(1607)に亡くなっていたため、松平忠直は12歳で家督を継ぎ、大坂の夏の陣では20歳でした。しかし、松平忠直は若年ながら勇猛な武将で、この夏の陣の戦いで、真田勢を打ち破るだけでなく大坂城に一番乗りしています。それを見た家康は忠直を大変誉めたそうです。『徳川実紀』附録巻15に次のように書かれています。
「(家康は)越前少将忠直朝臣が6日の戦いで、戦さに間に合わなかったと聞いて大変怒った。 (忠直の)家老たち(本多富正・本多成重)を本陣へ呼び出して、『今日井伊(直孝)や藤堂(高虎)が苦戦していたのを、 お前たちは昼寝でもして知らなかったのか。彼らの陣の背後を押し詰めれば城を乗っ取ることができたのに。大将は若年で、お前たちはみんな日本一の臆病人なのだから仕方がない』と散々にののしったので、家老たちはなんとも申し上げようもなく(家康の)御前を退いた。朝臣(忠直)にその様子を申し上げると、朝臣はこれを恥じ、また怒り、「明日の戦いではわたしをはじめとして全員が、武器を血でぬらし、城下に屍を晒そう」と、血眼になって命じた。」
松平忠直が率いる越前勢は、5月6日の「若江・八尾の戦い」で苦戦をしていた藤堂隊を助けなかったとして家康に散々に怒られことが、相当悔しかったようで、7日の戦いには死にもの狂いとで戦うと軍勢を鼓舞して臨んでいます。
その結果、越前勢は、真田勢を撃破し大坂城一番乗りを果たして、家康に褒められたことが次のように書かれています。
「(忠直は)7日の早朝には、諸大名に先立って軍勢を進め、真田幸村(信繁)の陣を打ち破り、一番乗りで大坂城に乗り込んだので、(家康が)感心することは一通りではなかった。朝臣(忠直)が本陣にやって来ると、(家康は)朝臣(忠直)の手を取って、『今日のような、一番の功名があってこそ、まことのわたしの孫だ』と言って、大変誉めた。また、二条城へ諸大名が集まった際にも、朝臣(忠直)を呼び、『お前の父秀康が生きている頃は、わたしに忠孝を尽くしてくれた。お前がまた今回の戦いでは諸大名より優れた軍功をあげた。このため感状を授けようと思うが、 家門であるのでそうはしない。わたしの本流が存在する限りは、越前家が絶えることはないだろう』ということで (忠直は)当面の引き出き物として、「初花(はつはな)の御茶入」を与えられ、将軍家(秀忠)からも貞宗の脇差を与えられた。朝臣(忠直)も(家康と秀忠からの)お褒めの言葉と引き出物に感謝を述べ、前回の恥辱を晴らした。大坂の陣において越前家の武功は、天下に並ぶものかなかったという。」
このように、大坂の陣で、松平忠直は、大変な武功を上げました。それに対して、諸大名の面前で「初花の茶入」を拝領するという栄誉を得たことが『徳川実紀』に書かれています。
さて、ここからは、松平忠直の後日談です。大坂の陣で武功を挙げて家康・秀忠から誉められたた忠直ですが、家康や秀忠からの恩賞はそこまでで、領知の加増はまったくありませんでした。そのため、松平忠直は、次第に生活が乱れ、藩政も乱れ、かつ将軍家にも反抗的となります。その経緯を新井白石は『藩翰譜』の中で簡略に次のように書いています。
「元和元年5月7日の合戦で真田(信繁)をはじめとして3750もの首を切って、真っ先に(大坂)城に攻め込んで、当時勲功第一で閏6月19日従三位参議に昇進したのは勲賞だと言われた。しかし、この殿(忠直)は自分自身武功の高さを誇り(それに対して)恩賞が低いのを怒って、私の父は大御所(家康)の長男として天下を譲られるべき身であるのに僅か一国だけを領して、私もその嫡子で家を継ぎ、こうした大功がなくても官位が上がっても当然だろうと言って、日に日に乱暴な行いが多くなり、大御所(家康)が亡くなった後は、天下に恐れは憚る人がなくなり、空けても暮れても酒と色に夢中となり、関東に参る(参勤交代の)時期が来ても、参勤しようともせず、重臣たちがいろいろ諌めるので、仕方なく国許を出発したものの、道中、鷹狩や川狩に熱中し、面白い所では幾日も幾日も逗留して、またある時には突然病気だと言って引き返し国に帰り、少しでも気にいらないことがあれば、男女に限らず、即座に自身が斬り捨てた者が何人と数えきれない。(後略)」
このように暴君となった松平忠直に対して、ついに秀忠は厳しい処断をくだし、元和9年(1623)、松平忠直は、豊後に配流となっています。

