秀忠、城を出た千姫に怒る。さらに毅然たる態度で秀頼母子に自害を命じる(「どうする家康」214)
『どうする家康』最終回で、家康と秀忠に千姫が秀頼・淀殿の助命を嘆願した際、秀忠が「将軍として秀頼に死を命じる」と応じる場面がありました。
千姫の助命嘆願については、以前書いた記事で『徳川実紀』を引用して次のように書きました。
「千姫は秀頼と淀の助命を嘆願しました。それを受けて、家康は秀忠の判断にまかせるとし、秀忠は、秀頼・淀君に対しても厳しい態度で臨み、助命嘆願を拒否しました。『徳川実紀』には、『大野治長も、家臣の米村権右衛門に秀頼母子の助命を願った。(家康は)将軍家(秀忠)の判断に任せると言って、米村を後藤庄三郎光次に預けた。(中略)御所(秀忠)より安藤対馬守重信を使者として、帯曲輪に籠っている秀頼母子ならびに付き従っている男女全員に自殺するよう命じたことを(家康がいる)茶臼山本陣に通知した。午の刻(正午頃)、井伊掃部頭直孝に秀頼母子以下全員自殺するよう命じた。』と書いてあります。」
ここでは、秀忠は淡々として助命嘆願を拒否したような雰囲気です。しかし、「どうする家康」での秀忠は毅然として「秀頼に死を命じる」と言っているように思いました。
前述の記事で引用した『徳川実紀』は正しくは『台徳院殿御実紀』と呼ばれる2代将軍徳川秀忠の事績を記録したものでした。そこで、同じ『徳川実紀』でも、徳川家康の事績を記録した『東照宮御実紀』のほうを読んでみました。すると、こちらには秀忠が毅然として決断している様子が記録されていました。
『東照宮御実紀』では、秀忠は、千姫が秀頼と一緒に自害せずに大坂城から出城したことについて怒り、家康の取り成しにもかかわらず、秀頼と淀殿の助命を聞き入れず、毅然として自害を命じたと書かれています。その部分を現代語訳して紹介します。
まず、秀忠は、千姫が秀頼と一緒に自害をせずに大坂城から出てきたことに怒りを感じたことが書かれています。「どうする家康」では千姫の安否を心配しているように描かれていましたが、『東照宮御実紀』では、厳しい秀忠の態度が記録されています。
「大坂城が落城した後、秀頼・淀殿母子は,芦田曲輪に籠っていた。姫君(千姫)は大坂城を出て母子(秀頼と淀殿)助命を本多正信を通じて(家康に)願った。(それに対して、家康は)『千姫の願いであれば、それに任せよう。母子(秀頼と淀殿)を助命しておいてもどういう事があるだろうか。お前(本多正信を指している)、(秀忠の本陣がある)岡山に行き将軍(秀忠)にも言ってみろ』という仰せであり、(本多)正信は岡山に行って、その旨を(秀忠に)申し上げると、将軍家(秀忠)はもってのほかの様子で、『(千姫は)なぜ、余計なことを言わずに秀頼と一緒に死ななかったのだ。』と言うので、(本多)正信は、(秀忠の話を)承ったまわった上で、『ともかくも、大御所のお考えに任せるべきでしょう。』と申し上げて、姫君(千姫)のほうに行って、同じように申し上げた。」
そして、翌日、家康と秀忠が密談した後、家康が秀頼母子の助命を主張すしたが、秀忠がそれに反対して、最終的には、秀頼母子に自害を命じるという秀忠の意見に決まったことが次のように書かれています。
「8日の朝になって、両御所(家康と秀忠)が会ってしばらく密談した。(そして、)諸大名が聞いている場所で、(家康)が将軍家(秀忠)に向かって『必ず秀頼を助命しなさい。ここが将軍の決断時期だ。」と言うと、将軍家(秀忠)は「仰られることではありますが、数度にわたり反逆しており、この上はもはや助けられません。」と言うと、『老人がこうまで言うのを聞いてくれなければ、この上は仕方がない。(秀忠の)心のままに任せる。』と言って、大変不機嫌の様子で座を立たれた。まもなく井伊(直孝)の陣から芦田曲輪へ鉄砲を撃ち掛け、秀頼をはじめ全員が自害したという話が伝わってきた。」
「どうする家康」での秀忠の様子は、『東照宮御実紀』に記録されているほうが合っていると感じましたので、『東照宮御実紀』も改めて紹介させていただきました。