家康、田中での鷹狩の最中に発病し体力が弱まる中で太政大臣にまで昇進する。(「どうする家康」215)
大阪の陣によって豊臣家を滅ぼした家康は、それが終わって約10か月後に病に倒れました。『東照宮御実紀』附録巻十六に次のように書かれています。
「元和2年(1616)正月21日に駿河国の田中(静岡県藤枝市)で鷹狩を催した。その頃、茶屋四郎次郎が京都から拝謁して、いろいろなお話を耳に入れた際に、(家康が)『最近、上方で珍しいことはないか』と聞いたのに対して、『この頃は、京阪の辺りでは、鯛を萱(かや)の油で揚げて,その上に薤(ラッキョウまたはニラ*注1)をすりおろしてかけることが行われて、私も食べたところ大変よい風味でした』と言った。ちょうど、その時、榊原内記清久(榊原康政の甥)から能浜(のうはま)の鯛が献上されたので、すぐに調理するように命じて召しあがられたところ、その夜からお腹が痛くなたので、駿府に帰られた。」
家康が発病したきっかけは、『徳川実紀』にも書かれている通り、その頃京都で流行っていると茶屋四郎次郎が紹介した「鯛の天ぷら」を食べたからだという話が有名です。これは一般的には「食中毒」によると言われていますが、篠田達明氏は『徳川将軍家十五代のカルテ』では「胃ガン」ではないかと推測しています。
家康が駿府に帰ったのは発病した当日ではなく、4日たった正月25日の事でした。報告を受けた秀忠もすぐに駿府に駆けつけ看病しました。
「将軍家(秀忠)も、このことを聞き驚かれ、急いで江戸から駿府へやってきて、さまざまに看病をした。(秀忠は)ひそかに朝夕に近くに仕える者たちを呼び出して、「大御所(家康)が、もしも自分の死後のことなどをおっしゃられたとしても、お前たちはよく気を配って、(家康の)お心がほかのことにうつるように話してお慰めし、少しでもお心が休まるようにすることが大切である」とおっしゃった。(中略)」
秀忠は、その後も、江戸と駿府を往復して看病しています。このように秀忠を始め周囲の人々が献身的に看病しますが、家康はやがて死期をさとって3月末頃には薬を飲むことも止めます。そのことが『徳川実紀』に次のように書かれています。
「このようにして3月の末ごろには、興庵法印(津田秀政)を呼び、薬を一つ調合させて、本多上野介正純が直接煎じて飲むように進めると、薬を召し上がるまもなく、盥盤(たらいばん)をひきよせてすべて吐いてしまった。(家康は)将軍家(秀忠)の方にむかって、『今回はわたしの死期がすでにやって来ており、天が定めた寿命はここで最期だ。どうして、草の根や木の皮でできた薬などでうまく寿命をとどめておくことなどができようか。従って、最初から薬は飲まずにおこうと思っていたが、無理に勧められるので、できるだけ飮もうとしたがこのように無意味だ。もはや薬は飲むまい』と言って、その後は决して薬を飲むことはなく、また女房たちも側に置くことはなかった」。
このように、家康の病が徐々に重篤になってきた中、3月17日に太政大臣に昇進しています。『徳川実紀』には次のように書かれています。
「3月27日(実際は3月17日)、太政大臣に昇進される。この頃は、病気が大変重くなっていたものの、天皇からの御恩がかたじけないことを畏(おそ)れて、病気をおして、晴れがましく勅使をお迎えになり、『紫泥の詔(しでいのみことのり:天子からくだされた詔書)』をうけた。」と書いてあります。
徳川家康以前に武家で太政大臣まで昇進したのは、豊臣秀吉、足利義満、平清盛だけでしたので、家康は、体調は十分でなくても晴れがましいことだったでしょう。家康が亡くなったのは元和2年(1616)4月17日でした。太政大臣に昇進したのは、亡くなるちょうど1か月前のことでした。
【注記】*注1の部分の原文は「鯛をかやの油のにてあげそが上に薤をすりかけし」と書かれていて、原文に書かれている「薤」は多くは「にら」と読まれますが、「らっきょう」という読み方もあります。原文では「薤をすりかけし」と書いてあるので「にら」ではなく「らっきょう」ではないかと思います。しかし「らっきょう」をすりかけるという調理法があったのか確認していません。