家康の六男松平忠輝は、家康の病状が悪化する中でも、面会を許されなかった(「どうする家康」216)
病状が悪化し死期を覚悟した家康は、子供たちや諸大名たちを枕元に呼んで、言い残しておくべきことを伝えたり、褒美を取らせたりしました。そうした中で、家康の子供でありながら、面会を拒否された人物がいます。それが六男の松平忠輝です。家康の今際の際(いまわのきわ)の様子は『徳川実紀』に書かれていますので、次回に書きたいと思いますが、今日は、今際の際(いまわのきわ)でも面会を許されなかった松平忠輝について書いてみます。
松平忠輝は、文禄元年 (1592)1月4日に生れた家康の六男です。母は茶阿局(ちゃあのつぼね)です。茶阿局は「どうする家康」に登場した阿茶局と名前がよく似ていますが別人です。慶長4年(1599)武蔵国深谷(埼玉県深谷市)1万石の城主となり、その後佐倉4万石、信濃国川中島14万石の城主を経て、慶長15年、越後国高田藩(新潟県上越市)藩主となり,越後・信濃両国で75万石 (異説もある)を支配していました。また、慶長11年には仙台藩主伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を妻に迎えていました。家康が発病した時点で生きていた家康の子供たちの中では、秀忠に次いでの年長者でした。その松平忠輝が、面会を拒否されています。そのことが『東照宮御実紀』附録巻十六に次のように書かれています。
「(家康が)三月の初めごろ(松平)越後少将忠輝朝臣の生母茶阿局を病床に呼んで言うには、『忠輝は生まれつき勇猛果敢なので、大坂の陣でも一人前にほかの者たちより優れて、世の中の人びとの耳目を驚かすような手柄を立てることもあろうかと思っていたが、思いがけず戦いの機会に遅れて、敵の旗色を見ることもなく終わってしまったのは大きな過失だ。私とは親子の間柄であるが、(忠輝を)疑わないわけではない。ましてや、将軍(秀忠)の心中はどのように思っているかわからない。さらに、私に報告もせず罪のない長坂血鎗(ちやり)(信政)の弟を誅殺(ちゅうさつ)したのはまったく非道なことだ』と言って、機嫌が非常に悪かったので、茶阿局はあれこれ返答することもできなかった。
そこで、このことを(茶阿局が)密かに越後(忠輝)に申し伝えると、少将(忠輝)は非常に驚いて、急いで出発して駿府にやって来た。重臣を通じてご機嫌を伺ったが、(家康は)甚だしく怒っていて、『城中へも入るな』との旨を伝えて、対面もかなわなかった。少将(忠輝)は仕方なく城下の禅寺に仮住まいし、病気がよくなったすきを見て、謝罪申し上げようとしているうちに(家康は)亡くなってしまった。」
松平忠輝は、最後まで、家康とは対面できませんでした。家康が亡くなってあまり日がたたない元和2年7月、秀忠は松平忠輝を改易し伊勢の朝熊(あさま・三重県伊勢市)に配流とします。『東照宮御実紀』にはその事が次のように書かれています。
「(家康が亡くなった後、忠輝は)江戸に下って、増上寺の観智国師(慈昌)を通じて、将軍家(秀忠)に訴えたが、(秀忠は)『すでに大御所が病が徐々に重くなる以前にも対面がされなかったほど、(忠輝の)乱暴な悪事がたび重なっているのであるから、そのまま大国を預けることはできない』 ということで、ついには越後国と信濃国を没収し、遠流に処した。」
秀忠も、実の弟である松平忠輝を容赦なく厳しく処断をしています。
松平忠輝は、前々から家康を怒らせるような行動をしていたようで、大坂の陣でも遅参したことで怒られていますので、そのことも併せて紹介しておきます。『東照宮御実紀』巻十五に次のように書かれています。
「越前少将忠輝朝臣は、戦さの期日に遅れ、戦さが終わった後で本陣にやって来た時、本多上野介正純が(家康の)御前にやって来て、「ただいま忠輝朝臣が参上しました」と申し上げたが、よそをご覧になっていて何のお言葉もなかった。(本多)正純は朝臣(忠輝)を(家康の)御前近くへ進ませると、 (家康は)「上総介(忠輝)、今日はどうしてここにいるのか?」とだけ話しになり、「堺の方に落人がいるようなので、花井主水(義雄)に追いかけて捕らえさせよ」と言った。(本多)正純は、これを聞いて(忠輝にむかって)「朝臣(忠輝)は、まずは自分の陣へお帰りになり、火の用心をなさってください」と申し上げると、朝臣(忠輝)は顔を赤らめて(家康の)御前を退出したという。この朝臣(忠輝)は、大国を支配しながら、大切な戦の機会をのがし、諸大名もどう思うことかと考えて、(家康の)怒りは並々ならぬものであったのだろう。」
家康は、越後一国と北信濃を治め、加賀藩前田家を監視する役割をもつ高田藩という重要な藩を任せてあるのにもかかわらず、大坂の陣に間に合わないという失態を演じた松平忠輝を許すことができなかったのでしょう。
なお、松平忠輝は、伊勢国朝熊、飛騨高山と配流先が変わり、寛永3年(1626)に、諏訪高島藩主諏訪頼水に預けられ、その後58年間、高島城南の丸で過ごし、天和3年(1683)7月に亡くなりましたが、92歳の長寿を全うしました。

