榊原照久(榊原康政の甥)、遺命により、死後も祭主として家康に仕えるよう命じられる(「どうする家康」217)
死期を覚った家康は、慶長20年(1615)4月頃から、子供たち、家臣や諸大名を枕元に呼んで遺命を伝えています。そうした遺命は、『東照宮御実紀』附録や『台徳院殿御実紀』に記録されています。そうした遺命は数多いのですが、今日は、徳川四天王の一人榊原康政の甥である榊原清久(改名後照久:以降照久と表記する)に与えた遺命を紹介します。
家康は、亡くなる前日の4月16日、榊原照久に「亡くなった後も祭主として家康近くに仕えよ」という遺命を与えています。『台徳院殿御実紀』巻四十二に次のように書かれています。
「16日、大御所が亡くなった後、遺骸は神式で久能山に埋葬するよう命じられた。(同日)大御所(家康)は病床に榊原大内記照久を近くに呼んで、久能山の廟所のことをつまびらかに命じて、『お前は、幼い頃から常にあれこれ気を使い怠けずに近くに仕え、そして新鮮な魚や野菜を絶えず献上してくれた。私が死んでもお前のお供え物を快く受けようと思う。東国の諸大名は譜代の大名であるので、用心する事もない。西国鎮護のために神像を西に向けて安置して、お前が祭主となり、社僧4人を置いてその役を勤めて欲しい。そのため、祭田五千石を与える』と命じた。」
このように、家康は、自分が亡くなった後は、久能山に神式で埋葬し、神像を西に向けて安置し、その祭主は榊原照久がなるよう命じています。
榊原照久は篤く信頼されていたと思われます。というのは、『東照宮御実紀』附録十六には「(前略)清久(照久のこと)が膝を枕としてかくれさせ給ひしとぞ。」とも書いてありますから。(現代語訳すれば、「榊原輝久の膝を枕としてお亡くなりになられたという。」となります。)
榊原照久の父榊原清政は、榊原長政の長男で、有名な徳川四天王の一人である榊原康政の兄です。つまり清久は榊原康政の甥になります。
父榊原清政は、幼年の頃から家康に仕えていましたが、のちに家康の長男信康に仕えました。しかし、信康が謀反の疑いにより遠江二俣城で自害した後、宮仕えをやめ、家康の関東入府した後には、弟榊原康政が城主であった館林で閑居していましたが、慶長11年(1606)に家康が武蔵国忍で鷹狩りをした時に呼び出されて駿河の久能城は要害の地であるため、これを守るよう命じられました。淸政は久能の地に赴きましたが、慶長12年(1607)に亡くなりました。榊原照久は、慶長5年(1600)、はじめて家康に御目見してより御側に仕えました。慶長12年5月、父清政がなくなったため、久能山の城番を命ぜられ、駿河国有渡郡で石高1800石を賜りました。大坂の陣に従軍するようお願いしましたが、久能山は要所の地であることから久能山に留まって守るよう家康から命じられました。
そして、元和2年(1616)4月17日、家康が亡くなった後、祭祀を司りました。これは『東照宮実紀』にもあるように照久が平生真面目に仕えていたため、家康から将来に亘って家康をお護りするようにという遺言があったためです。そして、徳川秀忠が25日に久能山に詣でた際に、「近臣が大勢いる中で家康が特に選んだことは名誉なことである。疎かにしてはならない」と特にお話があったそうです。
元和3年8月28日、夢枕に家康のお告げを受け、諱(いみな)を照久に改めます。正保3年(1647)8月7日に久能で亡くなりました。寛文4年(1664)、照久の息子照清が久能山の地に寺を建立し照久寺と名付け、ここに埋葬されています。照久寺は現在は、静岡市の宝台院別院となっています。
照久の子孫は代々久能山総門番として東照宮と久能山の守護の役目を継承しました。そして、交代寄合として江戸に参勤し、江戸城では帝鑑間詰めとされました。
交代寄合とは、参勤交代を義務付けられていた旗本を言います。参勤交代は1万石以上の大名に課せれた義務ですので、1万石未満の旗本は参勤交代する義務はありませんでした。しかし、旗本でありながら例外的に参勤交代を義務付けられた家がありました。これが交代寄合です。交代寄合は幕末期には30数家ありましたが、榊原家は、その一つとして、江戸に参勤していました。
また、『台徳院殿実紀』には、三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりとして討死した夏目吉信の子供たちも呼び出して、旗本として召し抱えるように遺命していますので、併せて紹介しておきます。なお、夏目吉信は「どうする家康」では、夏目広次と呼ばれ、甲本雅祐さんが演じていました。
「4月5日、夏目次郎右衛門信次、杢左衛門吉次兄弟を呼んで、『お前たちの父吉信は三方ヶ原で忠義を尽くして死んだ。私が考えていたように天下を統一し四界が平和になったことも、今思えば吉信の忠死の功によるものある。お前たちは現在諸国を漂白していることは全く間違っている事である。』と言って、酒井雅樂頭忠世、土井大炊頭利勝に『この兄弟を御所(秀忠)に言って、御家人に加えて、領知を与えるようにすべし』と仰った。」
夏目家は、『寛政重修諸家譜』によれば、江戸時代を通じて数家が旗本として存続しています。