家康、死に臨んで福島正則を呼び、不満があれば戦の準備をするよう言い残す(「どうする家康」218)
家康が死期を覚っていろいろな遺命を伝えたことが『東照宮御実紀』や『台徳院殿実紀』に書いてあることは前回書きましたが、その中に、豊臣恩顧の有力武将であり、家康が最も警戒していた福島正則に対して言い残した事が書かれていますので、今日は、それを紹介します。
福島正則は、豊臣秀吉子飼いの武将ながら、小山評定では真っ先に家康に味方し、関ケ原の戦いでも勇戦したことで有名です。しかし、豊臣家に対する忠誠心は強いものがありました。そのため、家康は福島正則を警戒して、大坂冬の陣、夏の陣でも大坂への出陣は許さず、江戸にとどめ留守居をさせました。
その福島正則を家康は死に臨んで枕元に呼んで、最期の言葉を与えます。『東照宮御実紀』附録巻十六には次のように書かれています。
「4月14日の頃であろうか。福島左衛門大夫正則を呼んで、領国に帰ることを許し、名物の茶入を与えて『先年、お前のことを将軍(秀忠)に讒訴するものがあって、長年、江戸に留まるように命じたのである。今回は、私からお前が謀反を起こすことがないことを将軍(秀忠)に詳細に説明したので、安心して帰国して2.3年ぐらい領国に滞在しても良い』と言うと、(福島)正則は涙にむせんで何の返答もできなかった。 (その上で、家康は)また『こうは言っても、この(私が死んだ)後、将軍に対して不平不満があれば速やかに兵を挙げるのも、(お前の)心次第である』と言うと、正則は大声をあげてただ泣いていたという。」
家康がまず言ったのは、「広島に帰国してよい」ということです。福島正則は、警戒されていたため、しばらく江戸に留まるよう命じられていましたが、謀反を起こすこともないだろうということを家康が秀忠に伝えたので帰国できるようにしたということです。これには福島正則も本当に喜んだことだと思います。
そして、より重要なことがつぎの言葉です。「もし、将軍家に反抗するのであれば挙兵してもよい。それはお前次第だ。」と言っています。簡単にいえば「やれるものならやってみろ」ということだと思います。これを聞いた福島正則はびっくりしたことでしょう。
そう言った家康自身も、その後の福島正則の態度が知りたくて、本多正純を呼んで、福島正則の様子を尋ねています。
「その後、(家康が)本多正純を読んで、『正則はなんと言っていたか?』と尋ねると、『(福島)正則は、〈太閤殿下が生きている時から、当家(徳川家)に対して、いささかも裏切るつもりはないものを先ほどのお言葉はあまりにも情けない事です。〉と申していました。』と言うと、(家康は)『それで十分だ。その一言を聞きたいと思ってあのように言ったのだ』と言ったそうである。』
家康の本意は、家康の死後、福島正則が謀反を起こさないように釘をさすことだったようです。この頃には、豊臣恩顧の有力大名である加藤清正や浅野幸長は死んでいますので、福島正則単独で、謀反を起こす力はありませんでした。しかし、家康は、自分が死んだ後はどうなるか心配だったので、家康はあえてこうした行動をとったのでしょう。
ところで、福島正則には、慶長15年の名古屋城築城の際に、名古屋城築城について不平を言ったら加藤清正から戒められたという有名な逸話が、『東照宮御実紀』附録巻十二に残されていますので紹介します。
「慶長15年、諸大名に命じて、尾州(尾張国)名古屋城を改築させた。その頃、福島左衛門大夫正則が、池田勝三郎輝政に向かって、『最近は江戸城・駿府城の築造工事があって、諸大名がみなこのために疲弊した。しかし、いずれも天下の御城であるので、誰も苦労したとも感じなかった。しかし、この名古屋城は(家康の)子供の居城であるのに、これまでも私たちに築造させるのはあんまりである。あなたは幸いに大御所(家康)の親戚であるので、諸大名のために、この旨を言上して欲しい。』と言った。(池田)輝政は何とも答えなかったが、加藤清正は大変怒って(福島)正則にむかって『お前は軽率なことをいうものだ。築城を嫌がるのであれば、人に言うまでもない。早く自分の国に帰って戦の準備をするべきだ。そんなことをしたくないのであれば将軍の命令に反して無要な事を言うな。』と強く戒めたので、正則も顔を赤くした。後で(家康が)このことを聞いて、(池田)輝政を読んで、『諸大名が度々の築城工事で難儀していると聞いた。それであれば、いずれの者も本国に帰って城や堀を堅くして軍勢を集めて、我らの討手が行くの待っているのが良い。』と言ったので、諸大名は恐怖して、迅速に人夫をかり集めて、夜を日に継いで築城をはじめ(た)」と書いてあります。
家康が、死に臨んでも警戒していた福島正則は、元和5年6月9日、広島城を無届けで修築したことを咎められ本丸そのほかことごとく破却すべきことを命じられていましたが、石垣を少し壊しただけでそのままにしておいたため、そのことを責められ、安芸・備後両国を没収され、陸奥津軽への転封を命じられました。その後、転封先が津軽から変更となり最終的には、信濃川中島4万5千石を与えられることになりました。家督は子の福島忠勝に譲って、自身は信濃国高井(長野県上高井郡高山村)に蟄居しました。翌年、福島忠勝が早世すると、2万5千石を返上しました。そして、寛永元年(1624)に福島正則が64歳で亡くなりました。しかし、幕府の検使が到着する前に、福島正則の遺骸は荼毘に付されたため、福島家は改易されました。しかし、その後、福島家は、福島正則の功績を考え、旗本として再興され、それ以降、代々続きました。

