福島正則、関ケ原合戦の直後、家康の家臣伊奈昭綱の首を要求する(「どうする家康」219)
前回は、家康が亡くなる直前の家康と福島正則の力関係について書きましたが、関ケ原の戦い直後の家康と福島正則の力関係がわかるエピソードが『名将言行録』に書いてありますので紹介します。今日は、少し長くなりますが、ご容赦下さい。
関ケ原の戦いの直後、福島正則が、正則の家臣に恥をかかせた家康の家臣伊奈図書(昭綱)の首を要求するという事件が起きました。ちょうど関ケ原の戦いが終わった直後という時期でもあり、困った井伊直政と本多忠勝は家康に相談したうえ、伊奈昭綱を切腹させ、伊奈の首を福島正則に届けたという話が、『名将言行録』に書かれています。
なお、福島正則から首を要求された伊奈図書つまり伊奈昭綱は、江戸時代初期に利根川東遷などで大活躍した民政家伊奈忠次の本家筋にあたります。伊奈昭綱の父昭忠と伊奈忠次が従兄弟です。
福島正則の家臣が切腹することになったのは、伊奈昭綱の家臣が守っていた京都の日岡の関所でトラブルが起き、辱しめられたことが事件の発端でした。それについて詳しく次のように書かれています。
「この役(関ケ原の戦い)が終わって、家康が近江草津の宿に着いたとき、京都中が騒がしいとの話が聞こえたきたので、狼藉を鎮めるために、正則らを都に上らせた。正則の家臣佐久間佐左衛門(原文のまま:詳細は不明)が、使いがすんで下ってくる途中、日岡(京都市山科区)の関を通るとき、関所の番人と口論になった。しかし自分の主人に追いついて用事をすませてから、暇乞いをして引き返し、先の関所番と戦って死のうと思って、そのことを(正則に)申し上げた。」
一方、『寛政重修諸家譜』の伊奈昭綱の項にも、この事件の発端について次のように書いてあり、こちらの方がわかりやすいかもしれませんので、こちらも現代語訳して紹介します。
「9月17日、近江国佐和山落城の後、(家康が)本陣を永原に移された時、諸大名の軍勢が京都に入って、乱暴するのを防ごうとして、(伊奈)昭綱、近藤季用(すえもち)、加藤太郎左衛門成之とともに仰(おうせ)を承って、日岡(京都市山科区)に関を構えて往来の者を検分した。20日、福島正則の使者がその関を通り、非礼の事があったとして昭綱の家臣と口論になり、杖でその使者を打ち据えたところ使者は、これを恥じて自殺した。」
家臣から、この話を聞いた福島正則は、最終的に家臣に切腹させ、その首を伊奈昭綱に送りつけます。次のように書かれています。
「(福島)正則は馬に乗ったまま、これを聞いていたが、非常に機嫌を悪くして、しばらくしてから、『天晴だ。お前は、主人の使いだからとして、恥を忍んで帰ってき、暇を乞うてから、大勢(おおぜい)に立ちむかって、死ぬつもりだという。神妙の至りである。私に考えがあるから、わしについて来い』といって都に連れていき、そして佐左衛門を呼んで、『お前を必ず死なせてやろうと思う』というと、『おっしゃるには及びません』と答えた。『それならば、そこで腹を切れ。わしがお前に代わって、徳川殿からあの関を守らされている伊奈(昭綱)の首を取って、お前に手向けてやる』といって首を打ち落とし、伊奈図書助今成(昭綱)の許に贈り、『私の家臣が伊奈殿に恨みがあるといって腹を切りました。首実検のために、彼の首をさし上げます。十分に首実検して下さい」と言った」
首を送られた伊奈昭綱は驚いて、井伊直政・本多忠勝と相談のうえ関所を守っていた足軽の首を斬って福島正則のもとに送りました。
「今成(原文のまま:昭綱のこと)は、その使いの者にことの次第を聞き、『私の家臣に聞いてみて、このような事件があったことをはじめて知りました。おっしゃることは承りました』といって使いを返した。井伊直政・本多忠勝らが相談して、関所番にあたっていた者6人の首を切って、正則のもとに送った。」
しかし、足軽6人の首を贈られた福島正則は一層激怒しました。そして首を返すと次のように言いました。
「正則はこれにはますます怒りを増し、首を全部返して、(中略)、『私の家臣の首を贈ったのに、頂戴した首はすべて足軽のものとみえる。(中略)私の家臣を、そちらに属している足軽と同等の扱いをされては、私は、天下に対して面目を失くしてしまう。また私が贈ったのは、家臣の首ただ一つであり、頂戴した首が多いことを望んだのではない。これらの首を頂戴しても仕方ない。すみやかにお返し申す』と言った。」
こう抗議されて、井伊直政と本多忠勝は、足軽でなく騎馬の家臣に責任をとらせると回答とします。しかし、福島正則はそれでも満足せず、引き籠る事態となってしまいました。次のように書かれています。
「井伊・本多はこれを聞いて非常に驚いて『貴殿の申されることは、まことに道理にかなっています。それでは、伊奈に属している騎馬侍の首を切って贈りましよう。これで伊奈(昭綱)と仲直りして下されば、公私ともに幸いなことで、これ以上のことはありません』というと、正則は『家子郎党に疎まれては、今後はかばかしい戦はできますまいこうなれば徳川殿も、私のことをよくは思っていないでしょう。今後はご門下に伺候したとしても何の益もありません』といって引きこもってしまった。」
この事件が起きたのは、関ケ原の戦いが終わった直後であり、まだ大坂城には毛利輝元らが在城している状況でした。もし、このまま福島正則が引き籠っていると今まで家康に味方をしていた豊臣恩顧の武将たちがどう動くかわかりません。そこで家康が決断したのは福島正則の要求を呑むことです。『名将言行録』では次のように書かれています。
「家康はこのことを聞いて、『正則の申すことは道理がないわけではない。伊奈の処置が不当なのだ』と怒られたので、今成(伊奈昭綱)は腹を切って死んだ。井伊直政は、やがてその首をもって正則の陣にむかった。正則はこれをみて、『井伊殿のお力によって、正則の恥も雪(そそ)ぐことができました』といって喜んだ。」
福島正則が要求する無理難題に対して、交渉役の井伊直政や本多忠勝はもちろん家康も弱り果てたことだと思います。しかし、当時の状況では福島正則の要求を飲まざるをえませんので、さすがの家康も、福島正則の要求に屈しています。家康として仕方がない判断だと思います。
この逸話は、関ケ原の戦い直後の福島正則と家康の力関係をよく表していると思います。
しかし、この力関係も長くは続きませんでした。前回書いたように福島正則は、家康が臨終を迎えた頃には、福島正則は家康に完全に屈服しています。そして、福島正則は、元和5年6月9日に減封のうえ転封されることになります。その時の福島正則の感慨が『名将言行録』に書かれていますので、それも併せて紹介しておきます。
「このとき、正則の家臣が、正則にむかって『これまで武功を挙げられたのに、(このような処置は、)どういうことでしようか』というと、正則はこれを聞いて『弓をみてみよ。敵があるときは重宝なものだが、国が治まっているときは、 袋に入れて土蔵に入れて置く。私はつまり弓である。乱世のときに重用されるのだ。今は治世の時代であるので、川中島の土蔵に入れられるのだ』といった。」
福島正則自身の感慨の通り、福島正則は乱世でこそ活躍できる人間だったのかもしれません。
今日は長くなってしまってすみませんでした。最後までお読みいただきありがとうございました。

