家康大往生、久能山に移された霊柩に供奉したのはわずか11人であった。(「どうする家康」)
家康は、元和2年(1616)4月17日に75歳でなくなりますが、亡くなる少し前の4月2日に金地院崇伝、天海大僧正、本多正純を枕元に呼んで遺言を伝えました。その遺言について『台徳院殿御実紀』には次のように書かれています。
「2日金地院崇伝、南光坊天海大僧正ならびに本多上野介正純を大御所(家康)の病床に呼んで、『亡くなった後は、久能山に埋葬し、葬儀は江戸増上寺で行い、位牌は三河国大樹寺に置き、一周忌を経て下野の日光山に小さなお堂を建立し祀れ。京都には南禅寺の中の金地院に小さなお堂を建てて、所司代はじめ武家衆に参拝させよ』と命じました。」
家康の遺言は、⑴久能山に埋葬すること、⑵葬儀は増上寺で行うこと、⑶位牌を岡崎の大樹寺に安置すること、⑷一年後に日光に小さなお堂を建てて祀ることなどでした。
そして、家康は、4月17日午前10時ごろに亡くなります。そして、その日の夜間に小雨が降る中、遺言に従って霊柩が久能山に移されました。しかし、その霊柩に従ったのはごくわずかな人々たちだけでした。『台徳院殿御実紀』に次のように書かれています。
「17日の巳の刻(午前10時頃)、大御所(家康)は駿府城の寝所で亡くなられた。享年75歳。御遺命によって、夜中、遺骸を久能山に移した。本多上野介正純、松平右衛門大夫正綱、板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝の四人が霊柩に供奉して、御所(秀忠)名代として土井大炊頭利勝、宰相義直卿(徳川義直)の名代成瀬隼人正正成、宰相頼宜卿(徳川頼宜)の名代安藤帯刀直次、少将頼房朝臣(徳川頼房)の名代中山備前守信吉だけが霊柩の後から供奉した。その他の人は久能山に登ることが禁止された。金地院崇伝、大僧正天海、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)は特別に供奉した。町奉行彦坂九兵衛光正、黒柳(畔柳)寿学、大工中井大和守正次は、前もって久能山に登って霊廟の仮御殿を建てた。この夜、小雨が降っていた。」
家康の霊柩に供奉した人々は全てで11人で、それ以外の人が久能山に登るのは禁止されたようです。供奉した11人は次の3つのグループに分けられます。
⑴家康の側近たち、①本多正純、②松平正綱、➂板倉重昌、④秋元泰朝
⑵秀忠を始めとする子供たちの名代 ⑤土井利勝(将軍秀忠の名代)、⑥成瀬正成(尾張藩主徳川義直の名代)、⑦安藤直次(紀伊藩主徳川頼宜の名代)、⑧中山信吉(水戸藩主徳川頼房の名代)、このうち成瀬正成、安藤直次、中山信吉は、もともと家康の側近ですが、幼い当主の補佐のため徳川御三家に派遣された付家老です。
⑶側近の僧たち、⑨金地院崇伝、⑩天海大僧正、⑪神龍院梵舜、この3人は家康の知恵袋です。このうち神龍院梵舜は。吉田神道(しんとう)家の吉田兼右(かねみぎ)の子で、初め神道を学び、のち出家し、京都吉田山下の神龍院の住職でした。以上の11名だけが供奉しました。
また、家康は、亡くなると駿府で葬儀等が行われなくて、その日のうちに久能山に遺骸が移されています。あまりこうしたことは行われないと思います。こうした特別扱いがされたことについて、曽根原理氏は『神君家康の誕生』の中で、「浦井正明氏は、諸大名の香典を受けなかったことも紹介した上で、急遽遺骸を移した理由について、『家康を神に昇化するためには、ます生身の家康の遺骸をできるだけ早急に人の目から隔離することが望ましいと判断したのではないだろうか』と推測している。首是されるべき見解であろう。」と書いています。

