久能山から日光に改葬されて出来上がった豪華絢爛な日光東照宮、しかし、家康は豪華にするなと遺命していた(「どうする家康」221)
元和2年(1616)4月17日に亡くなった家康は、即日久能山に移されて神として祀られた後、遺言に従って、1年後の元和3年3月15日に久能山を出発して日光に改葬されました。3月15日に久能山を出発した霊柩は、相模国中原にあった中原御殿までは東海道に沿って進み、中原御殿からは、ほぼ真北にむかって北上し、府中、川越、忍、佐野、鹿沼を通って、4月4日に日光に到着しました。約20日間の行程でした。
『台徳院殿御実紀』巻四十五には、霊柩が日光に向かって進む様子が記録されていますので、それから、改葬行列の行程を書いてみます。
元和3年(1617)3月15日 久能山出発し善徳寺(静岡県富士市)で1泊
3月16日 善徳寺を出発し吉原より浮島が原(静岡県富士市)をへて三島で2泊
3月18日 三島を出発し箱根山を越えて小田原に2泊
3月20日 小田原を出発し小余綾(こゆるぎ)の磯(神奈川県大磯付近一帯の海岸)を過ぎて中原御殿に1泊
3月21日 武州府中の府中御殿に2泊。
3月23日 府中を出発し川越喜多院の大堂で4泊
3月27日 川越喜多院出発し忍(埼玉県行田市)で1泊
3月28日 忍を出て、館林で休憩し佐野の惣宗寺で1泊。(※家康の遺骸が泊まった惣宗寺は、現在、「佐野厄除け大師」として有名なお寺です。)
3月29日 佐野を出て、鹿沼の薬王寺を御旅所として、ここに4月3日まで滞在
4月4日 未刻(午後2時頃)に日光山の座禅院に入る。
4月8日 日光山奥の院の岩窟内に安置する。
4月17日 遷座祭が行われる。
こうして、日光に家康をご祭神とする東照宮が鎮座することになります。現在の日光東照宮は豪華絢爛な建物で知られていますが、現在の主な社殿は、3代将軍家光によって、寛永13年(1636)に増改築されたものです。
しかし、家康自身は、自分が死んだ後、自分の廟所が豪華になることを懸念して、そうしないよう遺命しています。『東照宮御実紀』附録巻十六に次のように書かれています。
「(家康は)病気療養中に仕えた者の中でも、特に秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌、松平右衛門大夫正綱、榊原内記清久は安心して召しつかった。ある日、(板倉)内膳正重昌を呼んで、亡くなった後の事を数々いい置いたが、そのなかに、『私がなくなった後には、将軍家(秀忠)はきっと私の廟所を荘厳に建造するだろう。それは無用な事である。子孫末代まで初代(家康)の廟を越えることのないようにさせるために、私の廟は簡素に造営せよ。』と言っていたことがあった。」
このように家康は、後々のことを考えて、簡素な廟所を造らせようと側近の板倉重昌に命じていました。
しかし、家康が亡くなった後に板倉重昌からそのことを聞いても、秀忠としては、簡素なものにするわけにはいかなかったようです。次のように書いてあります。
「(家康)が亡くなられた後に、(板倉)重昌がこの事を申し上げると将軍家(秀忠)はこれを聞いて『先代にとっては非常に謙譲な美徳だと申し上げるが、私達が孝養を尽くす思いから言えば、あまりにもつつましやか過ぎる。凡そ荘厳だと言われる程度に造ろう』と言って、最初の廟所はできたものである。」
秀忠は豪華絢爛すぎるものではなくて、そこそこ荘厳なものを建造させたようです。しかし、秀忠の子供たちは、より先代を荘厳に祀ろうという気持ちが強かったようです。『台徳院殿御実紀』に次のように書かれています。
「その後、崇源院殿(お江)の霊牌所(位牌堂)の造営の際に、駿河亜相(徳川忠長)が思う存分に祀って厳(おごそ)かにできたので、台徳院殿(秀忠)が亡くなった時には、また、霊廟を(お江の)霊牌所より良いものに造営せよと命令があり、段々と荘厳になった。この二か所に比べると日光山の御廟はいかにも簡素すぎるということで、大猷院殿(家光)の時代に新しく建てるのではなく、改修の形式をとって若干の費用を使って、後の宮が出来たという。こうして、廟が厳然として、天下に比類ないほどになったのである。」
家康は、家光によって東照宮が絢爛豪華なものに建造された際に、東照宮の中でどのような感想をもったのでしょうか?「家光お前、やりすぎだ」と怒ったのでしょうか?「やっぱり、そう造ったか。仕方がないなぁ」とあきれながらも喜んだのでしょうか?