東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから秀忠が選んだもの(「どうする家康」222)
徳川家康は、東照宮に神として祀られています。「どうする家康」でナレーションで寺島しのぶさんが家康のことを「神の君」と呼んでいたのはそのためだということは多くの方がご存知だと思います。家康を神として呼ぶ場合の称号が東照大権現です。今日は家康が東照大権現として祀られるようになった過程を書いてみます。
家康は、元和2年4月17日に亡くなり、その日に久能山に移され、神として祀られました。この儀式を執り仕切ったのが、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)でした。神龍院梵舜は以前書いたように吉田兼右(かねみぎ)の子で、神龍院の住職でした。吉田家は吉田神社の神官をつとめ、吉田神道とよばれる神道の一派を形成していました。梵舜は兄吉田兼見とともに、豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣秀吉を豊国大明神として祀ることや豊国神社の創建に尽力していました。
『日光東照宮の成立』(山澤学著)p29に、「梵舜は、吉田神道をつかさどる神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)吉田(ト部)兼右の男子であり、豊臣秀吉を豊国大明神という神とし、豊国社の創設にあたった神道家であった。当時、不遇の死を遂げた後に跳梁する怨霊とは異なり、通常の死を迎えた人間を直ちに神霊として復活させ、神に祀る法儀を有していた神道は吉田神道のみであった。吉田家では永正8年(1511)2月19日に没した兼倶以降、代々の当主を遷宮の儀式に擬して葬送し、その遣骸を葬った墓所の上に霊社を設け、神に祀る法儀を執行した。梵舜は、現実にその法儀を用いて天下人豊臣秀吉を神に昇華した。梵舜の執行する法儀によって徳川家康が神格化されたのである。」と書いてあります。
こうして、梵舜は明神形式で家康を神として祀りました。そして、家康の神号も「明神」とする考えでした。しかし、これに異を唱えたのが天海大僧正でした。天海大僧正は天台宗が唱える山王一実神道に基づいて「権現」という神号にすべきという考えでした。
こうして、「明神」を主張する神龍院梵舜と「権現」を主張する天海大僧正との間で論争が起こります。
『台徳院殿御実紀』巻四十二にも論争について次のように記録されています。
「元和2年5月3日 本多上野介正純、土井大炊頭利勝、安藤対馬守重信、金地院崇伝を神龍院梵舜の旅宿に遣わされて、御神号のことを評議し、権現と大明神の神位について甲乙優劣を尋ねさせた。梵舜がその話を聞いて、『権現と大明神の尊号には優劣はないけれども権現は陰陽両尊の神号で、大相国(家康)の尊号はもっとも大明神の尊号がふさわしい、(中略)』と答えた。」と記されています。
その後の論争がどのようになったか『台徳院殿御実紀』には書かれていませんが、最終的には、天海が主張する「権現」が採用されました。
それについて決め手となったのが明神と言う神号は不吉だという天海の主張だったとよく言われています。『神君家康の誕生』(曽根原理著)にも「最後は天海が『子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ』と言い放ち山王一実神道で祭ることに決定した」と書いてあります。
一方、『台徳院殿御実紀』巻四十二には、前述の記述の後に注記があり、「今案ずるに、梵舜が伝えることは、吉田卜部の神道で、既に豊国も大明神と号しているのは梵舜等の考えである。しかし、かねて、烈祖(家康)は天海大僧正を信任していて、天台宗山王神道に帰依していたので、亡くなる前に既に天海と決めていて、『私(家康)が亡くなった後は必ず大権現と称して永く国家を鎮護しよう』と仰せおいたことなので、天海は大権現という考えをひたすら主張して、梵舜の考えはついに採用されなかったのであろう。」と書いてあり、家康と天海が生前に大権現とすることと決めていたとしています。
また、『南光坊天海の研究』(宇高良哲著)p37には「死後の祀りの場として、明確に日光を指定していたことは、祭祀を天海に委ねることであり、それは山王一実神道で祀られることを意味している。したがって神号も権現号が前提となる。第一、秀吉の豊国大明神を凌駕した神格を求める者にとって、明神号は最初からあり得ない選択肢であった。このことは、将軍や崇伝にとっては既に了解事項であったと考えられる。」と書かれています。
2代将軍秀忠も天海の主張を支持して、天海に京都に上洛して、朝廷と交渉するよう命じ、天海は6月に上洛しました。そして、朝廷に働きかけた結果、7月13日に権現とするよう勅諚が出され、勅許されました。
その後、神号案の検討が行われ、朝廷から四つの案が提示されました。それは①日本大権現、②東光大権現、➂東照大権現、④霊威大権現の四案でした。『徳川家康の神格化』(野村玄著)によれば、①日本大権現、②東光大権現の2案は二条昭実の案であり、➂東照大権現、④霊威大権現は今出川晴季から出された案だったようです。そして、その四案から一つを将軍秀忠に選んでもらうこととなりました。
そうした朝廷側の結論は、天海大僧正から書状で江戸に通知された後、天海大僧正自らが江戸に戻り秀忠に報告しています。
『台徳院殿御実紀』巻四十二には「9月3日、天海大僧正が京から帰り、江戸城に参上し(秀忠に)拝謁した。9月7日、天海大僧正が京から御神号の議を承って来て奏上しました。二条関白昭実公、菊亭右大臣晴季公から出された東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現のうちから、御所(秀忠)の思し召しのままに定めてよろしいとの叡慮(天皇のお考え)とのことである。近日に(武家)伝奏のお二人が下向するとのことであるので、お二人と協議して決めるとの仰せが出された。」と書かれています。
そして、秀忠が決めたのは「東照大権現」という神号でした。
その秀忠の決定を受けて、「東照大権現」の神号が朝廷から与えられました。『台徳院殿御実紀』には「元和3年3月9日 京より東照大権現に正一位の御追贈宣下ありしかば、御所ことさら御感悦大方ならず。」と書いてあります。
こうして、家康は東照大権現という神様となり、東照大権現を祀る神社は東照社とよばれました。そして、家康が亡くなって29年後の正保2年(1645)11月3日に、東照社が東照宮に改められました。
この記事を本年の最後の記事とさせていただきます。
今年もご愛読いただきありがとうございました。
皆様、良い年をお迎えください。