徳川家康の継室旭姫のお墓がある瑞龍寺(徳川家康ゆかりの地61)
これまで久能山東照宮を紹介してきましたが、久能山東照宮をお参りした際に、静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社である瑞龍寺、華陽院、小梳(おぐし)神社をお参りしてきました。これらの寺社についても、まだごブログで紹介してありませんので、これから数回にわたりご紹介します。
瑞龍寺は家康の継室旭姫のお墓があり、華陽院は家康の祖母華陽院のお墓があります。小梳(おぐし)神社は家康が人質として駿府に入った際に最初にお参りした神社と言われています。これらの中から今日は、旭姫のお墓がある瑞龍寺を紹介します。
瑞龍寺は JR静岡駅前から、路線バスの「しずてつジャストライン安倍線または美和大谷線」で「材木町バス停」下車して徒歩2分です。
瑞龍寺は、永禄3年(1560)、曹洞宗長源院(静岡市葵区沓谷)の5世大和尚でもあった能屋梵藝(のうおくぼんげい)大和尚が開山した曹洞宗のお寺だそうです。下写真が寺院入口から撮った瑞龍寺全景です。

家康の継室旭姫は、滞在先の京都で死去し東福寺南明院に埋葬されましたが、瑞龍寺にも分骨されたといいいます。旭姫のお墓は本堂の裏側の山腹に西を向いて建てられています。(下写真)

旭姫は天文12年(1543)、尾張国(愛知県)中村で生まれました。父竹阿弥は母なかの再婚相手です。豊臣秀吉は、なかの前夫木下弥右衛門となかとの間に生れており、旭姫は秀吉の異父妹になります。一方、豊臣秀長とは父を同じくする兄妹です。
天正12年(1584)、家康は小牧・長久手の戦いの後、二男秀康を人質として秀吉のもとに送ったものの家康自身は上洛しませんでした。そこで、秀吉は家康の上洛を促すため、築山殿が亡くなった後正室のいなかった家康に対して、旭姫を正室として輿入れさせました。旭姫はこの時、秀吉の家臣佐治日向守(また副田吉成との説もある)の妻であり、家康に嫁がせるため離別させたと伝えられています。 旭姫は天正14年(1586)5月、京都を発って浜松城にいる家康に嫁ぎました。この時、旭姫は44歳、家康45歳でした。その後、天正14年10月に家康は上洛し、秀吉に臣従しました。そして、家康は旭姫とともに同年12月、浜松城から駿府城に居城を移しました。
駿河御前と呼ばれた旭姫は、天正16年(1588)に生母大政所の病気を見舞うため上洛し、その後、いったん駿府に戻りました。その後、再び上洛しましたが、この時、病気となり二度と駿府に戻ることはなく、天正18年(1590)1月14日に亡くなり、京都・東山にある東福寺南明院に葬られました。48歳でした。法名は「南明院殿光室総旭大禅定尼」と言います。
家康は天正18年南明院から分骨して瑞龍寺に旭姫の墓を建てました。旭姫が駿府に住んでいた間、しばしば瑞龍寺に参詣した縁があったためだと瑞龍寺には伝わっているようです。瑞龍寺での法名は「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」でした。なお、秀吉が小田原攻めで駿府に立ち寄った際、旭姫を供養するため墓を建てたとの説もあるようです。
お墓の前には旭姫について解説した説明板も建てられています。(下写真)

豊臣秀吉は、旭姫が他界した年に、小田原の北条攻めを行い、関東に向かいました。7月には、北条氏政・氏直親子が降伏し、北条氏は滅亡しました。小田原攻めを完了し畿内に帰る途中、秀吉は天正18年8月22日、駿府に立ち寄った際に瑞龍寺に参詣、旭姫を供養したといいます。秀吉はその際、瑞龍寺に8貫文の寺領を寄進した領地安堵の朱印状を発給しています。下写真が瑞龍寺の本堂です。

なお、北条氏が滅亡した後、秀吉は、家康を関東に移封し、東海道筋には、秀吉子飼いの武将たちを配置し、駿河には中村一氏を配置しましたので、秀吉が瑞龍寺を訪ねた時の駿府城主は中村一氏でした。
この時、秀吉が与えた朱印状が現存しており、瑞龍寺の寺宝の一つとなっていて、2023年4月に静岡市の文化財に指定されています。この朱印状と同時に①秀吉はが小田原征伐からの帰途に立ち寄って際に与えた「桐紋蒔絵膳」、②旭姫所用したと伝わる「桐沢瀉紋立湧模様打敷(小袖)」⓷「瑞龍寺由緒書」に家康より旭姫のために奉納されたとの記載がある「釈迦三尊・十六羅漢絵像(三幅一対)」④「覚(瑞龍寺由緒書)」も静岡市の文化財に指定されています。上記文化財は2023年11月18日(土)・19日(日)には特別公開されたようです。
境内には、、芭蕉の句碑・時雨塚やキリシタン灯篭などがあります。
下写真が芭蕉の句碑・時雨塚です。

下写真がキリシタン灯籠です。

下地図の中央が瑞龍寺です。
静岡浅間神社の近くです。浅間神社の赤鳥居からは徒歩約7分の距離です。

