華陽院に眠る駿府の人質時代の竹千代(家康)を養育した源応尼は謎多き人物(徳川家康ゆかりの地62)
今日は静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社の一つである華陽院(けよういん)を紹介します。華陽院には駿府で人質時代を過ごした徳川家康を養育した家康の祖母源応尼のお墓があります。
華陽院は、JR静岡駅北口から徒歩10分の距離にあります。下写真がお寺入口ですが、正面が本堂です。入口右手は境内に併設されている幼稚園です。
本堂手前に華陽院について静岡市の説明板があります。それには次のように書かれていました。
「華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551年)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は、源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣りあったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛の心を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職知短であった。
源応尼は、永禄3年(1560年)5月6日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に隠退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法名から改められたものである。
境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の五女市姫の墓が、近くには側室お久のかたの墓もある。主な寺宝 団扇(家康が使ったもの) ひなた屏風(市姫が使ったもの) 静岡市 」
源応尼のお墓は、本堂西側の墓所の中にあります。(下写真)
源応尼については、静岡市の説明板の通り、幼い頃の徳川家康の養育にあたったとされています。しかし、源応尼の素性についてははっきりしておらず謎が多いようです。『新編岡崎市史2(中世)』(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます)の中に「家康誕生」という項目の中で源応尼(於富)に関して触れられていますので紹介します。
『新編岡崎市史』では、「家康の父は広忠(16歳)、母は水野忠政の女(むすめ)於大(15歳)。二人の婚姻は、天文10年のことであったが、この婚姻は政略的なものであるとともに祖父清康の影をひいたものであった。」と書かれたあと、「清康の影とは、(中略)、広忠は清康と青木貞景の女との間の子、於大は忠政と大河内元網養女於富(宮前七女、一説に尾張の青木式宗女)との間の子で、於富は忠政の死後は清康の妾となったから、広忠と於大は父母は異なるものの兄妹という関係によるというものである。」と、まず松平広忠と於大は父母は違うものの兄と妹という関係になると書いてあります。
その後で、家康の祖母源応尼(実名は於富)について『新編岡崎市史』では、次のように説明しています。「広忠と於大は兄妹となるが、問題になるのは清康の三人目の妻という於富である。『松平記』は於富は水野忠政没後清康の室となったというが、忠政は清康に遅れること7年の天文12月7月12日に51歳で没しているから、これは正しくないことになる。また忠政と於富の間の子とされている5人のうち生年の知られる四人の生まれは、忠守が大永5(1525)年、於大が享禄元(1528)年、忠分が天文6(1537)、忠重が天文10(1541)年となっており、於大と忠分の間に近信がいることを考えると、於富は清康の妻となった可能性は皆無といってよかろう。それにもかかわらず、『松平記』のみならず近世の幕府編纂の諸書までが、於富は清康の死後は星野秋国、菅沼興望、川口盛祐とさらに三度嫁したというのは、一体何によった話であろうか。さらに竹千代(家康)の駿府在住時代に、源応尼と称して16歳まで養育し、70余歳で永禄3(1560)年に没したというにいたってはどう解釈してよいのか判断に苦しむ。守山崩れで清康が25歳で死んだ折、於富は40歳をこえていた計算になるからである。」
赤字部分に書いてある通り、源応尼(於富)は、静岡市の説明とは異なり、非常に謎の多い人物だという説もあるようです。
そのうえで、『新編岡崎市史』では最後に「於富をめぐる謎も時代のしからしめるところであったといえそうである。」と書いています。戦国時代は謎のことが多く、源応尼の謎もその一つということのようです。
華陽院の源応尼のお墓の手前には、3歳で亡くなった家康の五女市姫のお墓があります。(下写真)
下地図中央が華陽院です。