竹千代が武運長久を祈願した小梳(おぐし)神社(徳川家康ゆかりの地63)
徳川家康は竹千代と呼ばれていた幼い時、今川家の人質として駿府に送られました。小梳神社は、そこ際に今川義元に対面する前にこの神社に立ち寄り、武運長久を祈願したとされている神社です。下写真が社殿です。

JR静岡駅前のビル群の間にあり目印は静岡パルコです。駅からは徒歩5分でお参りできます。下写真は呉服町通りに面した鳥居です。鳥居の向かい側にパルコがあります。

小梳神社についての説明をいろいろ調べてみましたが、神社の境内に掲示されている由緒がもっとも詳しいと思います。(下写真)。それによると、神社の「創建年代はハッキリしませんが、もともとは、現在の静岡県庁の東南の地辺り、すなわち静岡市歴史博物館がある辺りに鎮座していたようです。その地が小梳(おぐし)と言う地名で、小梳(おぐし)という神社名は、この地名に由来するもので、慶長14年(1609)駿府城を拡張した際に城内となり、徳川忠長が寛永8年(1631)に仮宮を造って奉遷し、延宝3年(1675)に現在の地に社殿を造営して遷宮したようです。その由緒(下写真)を転記しておきましたので、詳しくは下記をご覧下さい。

小梳神社
祭神 建速須佐之男命(たけやはすさのおのみこと) 奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
相殿祭神 大己貴命(おおなむちのみこと) 天照皇大神 金山彦命(かなやまひこのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)
由緒 当神社創建の年代は詳かでないが、静岡市では最も古い神社の一つである。元の鎮座地は、現在の県庁の東南側の所であった。その周辺一帯の地名を古くは小梳(おぐし)と云い、後に東川辺と改められた。惣国風土記に「小梳神社所祭素盞嗚尊・奇稲田姫也。小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり」と記載されている。大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来は、その守護神として信仰され、貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるにつれて、当神社は少将井神社とも云われ、江戸時代には一般町民からは専ら「少将の宮」と称せられたようである。
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての崇敬が加わり、特に徳川家康が幼時今川家の人質として、当神社の宮前町に居住し撫育につとめた祖母華陽院と共に、日夜武運長久を祈願し、後年家康が大阪夏の陣に勝利し天下を平定して、この駿府城に隠居するにあたり、代々徳川家の守り神と伝わる大己貴命・天照大神二神を、小梳神社に合祀し、少将井五所大神宮と称し、元和元年九月三日に林道春(羅山)に命じて、この由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。
これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその城域内に入った。駿河大納言忠長は、不敬を冒すを畏れ、又庶民参拝の便をはかって、寛永八年に仮宮を造って奉遷し、延宝三年に現在の地に社殿を造営して遷宮した。この造営の事にあたったのは城代松平右近を始めとして町奉行大久保甚兵衛外城番、番頭、加番、目付等である。
翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた。この神幸祭はぎおん祭といわれ町奉行、与力、同心が警護にあたり加番集より出し馬があり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物など踟物を出し駿府全域の町々を巡行した。当時のもようを駿国雅誌には「供奉の行列装束を粧い引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり」と記されている。
明治八年二月郷社に列し、明治四十年七月県社に昇格した。
昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物を悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和二十年六月の戦災により再び炎上したが昭和二十五年以来本殿・社務所・手水舎其他現在の建物を順次復興建築した。
昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城大宮司、神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された。
例祭日 七月二十七日
新庄道雄の石文 駿河国三大地誌の一と高く評価されている評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が、当神社境内にある。平田篤胤の撰文で静岡市文化財に指定されている。
上記由緒の最後に記載されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑は、境内の池の畔に設置されています。(下写真)

下地図の中央が小梳神社です。

