天海が家康と初めて対面したのは家康が駿府に移った後のこと《川越喜多院②》(徳川家康ゆかりの地65)
喜多院の本堂(慈恵堂とも言う)の南側の小高い丘の上に慈眼堂があります。この建物は、没後慈眼大師という大師号を朝廷から贈られた天海をお祀りするものです。(下写真は慈眼堂の正面から写したものです)
慈眼堂は、三間(約5.45メートル)四方の宝形造りの建物で、天海が亡くなって3年後の正保2年(1645)に徳川家光の命により建立されたものです。国の重要文化財です。
慈眼堂内部には、天海の木像が安置されています。(下写真)天海が亡くなる約2ヶ月前の寛永20年8月頃に造られたそうです。埼玉県の有形文化財に指定されています。椅子に座り、右手には払子を持ち、朱色の鮮やかな袈裟をまとった姿をしています。
なお、慈眼堂が建つ場所は小高い丘になっていますが、これは7世紀初頭の古墳です。下写真を見ると古墳の面影があるのがわかると思います。
天海は、陸奥国会津高田(福島県会津美里町)に生まれました。会津を治めていた蘆名(あしな)氏の一族に生れたと言われています。生まれた年は天文5年(1536)説が有力です。
以下、川越市立博物館の図録『徳川家康と天海大僧正』に掲載されている年表を参考に、天海の略歴を書いてみると次の通りです。
天文15年(1546)、11歳で出家し,はじめ随風と名のりました。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入国した年、天海も無量寿寺北院に入寺しました。この時、「随風」から「天海」に名を改めたといいます。
慶長10年(1605)家康は征夷大将軍の職を秀忠に譲り、駿府に隠居しました。天海は、同じ年に芳賀郡長沼(栃木県真岡市長沼)の宗光寺に入り、慶長12年(1607)に、比叡山の争論を裁断するために家康から命じられて上洛し比叡山南光坊に住みました。南光坊に住んだため南光坊天海と呼ばれます。
慶長13年(1608)頃、駿府で初めて家康に謁見しました。慶長16年(1611)、天海は、僧正に任じられます。慶長17年(1612)、天海は家康から無量寿寺の再興を命ぜられ、この頃、北院の名称を「喜多院」に改めたといいます。
家康は天海を厚く信頼していて、死ぬ際に遺言を残すメンバーの一人に選ばれています。しかし、ここまでの略歴でわかる通り、家康が、初めて天海と対面したのは、家康が将軍職を秀忠に譲り、駿府に移った後のことでした。
川越市立博物館の年表では家康に天海が初めて対面したのは慶長12年(1607)としてあり、『徳川実紀』では「(天海は)慶長15年に初めて駿府に召出された。」と書いてあります(※、『徳川実紀』原文は後記しました)。また、喜多院発行の小冊子『喜多院』(下写真)では、天海が家康と初めて会ったのは慶長13年あるいは慶長15年のこととしています。
天海が家康に初めて対面した年については諸説がありますが、家康が秀忠に将軍職を譲って駿府に移ったのは慶長12年のことですので、いずれにしても、天海が家康と対面したのは家康が駿府に移った最晩年ということになります。それにもかわかわず、天海は短い間に家康の深い信頼を得たといえるようです。
その後、天海の動向を、年表を参考に書いていきます。
元和2年(1616)4月18日、家康は駿府にて亡くなり、その日のうちに久能山に埋葬されました。天海は、この年の7月、大僧正に任じられます。
元和3年(1617)3月15日、家康の遺骸は久能山から日光山に改葬されるため、久能山を出発しました。川越喜多院には3月23日到着し27日に出発しました。そして、4月4日日光山に到着し8日埋葬されました。
寛永2年(1625)上野寛永寺が創建され、天海が住職となりました。この時、「東叡山」の山号は、喜多院から寛永寺に移り、喜多院の山号は「星野山」に戻りました。
寛永15年(1638)、川越の大火で、喜多院、仙波東照宮ともにほとんどの建物が焼失しました。時の将軍家光は、すぐさま川越藩主堀田正盛を奉行として喜多院の再建に着手しました。そして、慈恵堂は寛永16年(1639)には再建され、寛永17年(1640)に境内の諸堂が完成しました。
そして、喜多院の再建を見届けた天海は、寛永20年(1643)、上野寛永寺で亡くなりました。没年齢は108歳でした。この没年齢について宇高良哲氏は『天海・崇伝』の中で「天海の没年齢は108歳説が定説となっている。」と書いています。驚くほどの長寿だったということになります。そして、亡くなって5年後の慶安元年(1648)慈眼大師の大師号が朝廷より下されました。
以上が天海の略歴ですが、喜多院の興隆に大きな功績を残していることから、喜多院の山門の前に天海の銅像が建てられています。(下写真)
説明板には次のように書かれています。「天海大僧正(1536~1643) 喜多院第27世住職であり、会津高田(現福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城または喜多院を訪ねています。108歳で遷化(亡くなる)後、朝廷より「慈眼大師」の称号を賜りました。」
☆参考『徳川実紀』附録巻二十五
「天海僧正はもとは奥の会津蘆名が支族にして、いとけなきより釈門に入て諸刹を経歴して、名僧智識に就(つい)て廣く参禅の功をつみ、後に叡山に上りて東塔南光坊に住し、慶長15年はじめて駿府にめされて、法問を御聴に備え、またその説所の山王一実の神道ということ盛慮に叶い、これより眷注あさからず、常に左右に侍して顧問にあづかり、そが申所の事一事としてもちいられずということなし。御大漸に及ばせられし時にも、和尚を御病床にめし、我数百年の大乱を伐平らげ、四海一統の功をなし。齢また七旬にあまれり、天下の事一つとして欠る事なし。此うえは御坊の神道の奥義により、いよいよ子孫の繁栄を祈る事なり。つたえ聞、むかし大織冠鎌足は、摂州阿威に葬り、一年過ぎて和州談峰に遷葬せしとか。我なからん後には、此例になぞらえ、遺骸をばまず駿河の久能山に葬り、三年の後野州の日光山にうつすべしと御遺命ありしかば、和尚もなくなく御請申し、神されせ給いし後本多正純等と相議し、将軍家へ御遺托の旨を申上げしかば、台徳院殿の思召にて、その翌年日光山に遷し進らせしも、皆天海の専らうけひきつかうまつりし所なり。後に台徳院殿、大猷院殿の御代となりても、御待遇ますます浅からず、大僧正に叙し、毘沙門堂の勅号をさずけられ、遂に日光、東叡の両山を開き、叡山に合して三山と称するにいたれり。寛永20年10月に遷化せしなり。」(*「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載)