喜多院にある松平大和守家廟所〈喜多院⑥〉(徳川家康ゆかりの地69)
徳川家康ゆかりの地として紹介している喜多院には、江戸時代中期から後期にかけての約100年間川越藩主であった松平大和守家の廟所(墓所)があります。そこで、今日は喜多院の松平大和守家廟所をご案内します。
松平大和守家廟所は、喜多院の本堂(慈恵堂)の裏手(西側)にあります。ここに明和4年(1767)から慶応3年(1867)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主のお墓があります。下写真が松平大和守家廟所の全景です。

松平大和守家は別名「引越し大名」と呼ばれる程、転封を繰り返しました。まず初代直基は、当初は、 越前勝山に封じられましたが、その後越前大野、出羽山形、姫路と加増されながら3回転封を重ねました。さらにその長男で2代目の直矩(なおのり)が幼少で家督を嗣ぐと姫路はまかせられないということで越後村上に移され、成人後に再び姫路へ転封となりました。しかし、越後騒動に巻き込まれ、豊後日田へ転封となり、その後、さらに出羽山形、陸奥白河へ5回の転封を重ね、親子二代で8回も転封することとなりました。しかも近場への転封ではなく、初代直基は越前大野から出羽山形⇒姫路と、かなりの移動を伴う転封でした。2代目に至っては姫路から越後村上、越後村上から姫路、姫路から九州日田と、これまた長距離移動を伴う転封で、九州日田から出羽山形へという日本列島を縦断するような転封も経験しています。これでは、引っ越し費用も多額のものになり、藩財政は相当圧迫されたと思われます。
3代基知(もとちか)の時代には転封は一度もありませんでしたが、4代明矩(あきのり)の時に三度目の姫路転封となりました。しかし、転封直後に明矩(あきのり)が亡くなり、長男朝矩(とものり) は、まだ11歳であったため、またも転封で前橋に移されました。そして、これ以降、松平大和守家は、明治維新まで転封はありませんでした。ようやく「引越し大名」という芳しくない名前は返上できることになりました。ただし、松平大和守家は、当初は、前橋城を居城としていましたが、前橋城が利根川の浸食で危うくなり、明和4年(1767)に川越藩主秋元凉朝(すけとも)が白河に転封となり川越城が空いたため、川越に居城を移しました。それ以降、7代約100年間にわたり、川越藩を治めました。そして、慶応3年(1867)に前橋城を再建し、前橋城に居城を移し、明治維新を迎えました。
喜多院の松平大和守家廟所の入り口には説明板が設置されています。(下写真)

松平大和守家の川越藩主としては7人の藩主がいますが、そのうち喜多院の松平大和守家廟所に眠るのは、5代朝矩(とものり)、6代直恒(なおつね)、7代直温(なおのぶ)、8代斉典(なりつね)、10代直候(なおよし)の5人の藩主です。

その説明板によれば石門(上写真)を入った正面の玉垣内に4基、石門脇に1基あります。(下写真参照) 正面右(東側)から、5代朝矩(とものり)、6代直恒(なおつね)、7代直温(なおのぶ)、8代斉典(なりつね)の順に並んでいて、石門脇が10代直候(なおよし)の廟所です。

下写真は、石門正面に並ぶ4代の廟所です。

2017年3月7日の産経新聞の記事によれば、5代朝矩(とものり)の廟所が最初に独立して建てられた後、6代直恒(なおつね)、7代直温(なおのぶ)、8代斉典(なりつね)まで順に西側に増築され、8代斉典(なりつね)の西は堀になるため、10代直候(なおよし)の廟所は4基の向かい側に建てられたとみられるということです。下写真が石門脇にある10代直候(なおよし)の廟所です。
