「銀座発祥の地」碑は銀座役所のあった場所に建っている(銀座②)
銀座が駿府から江戸に移転してきたのは慶長17年(1612)で、『近世銀座の研究』(田谷博吉著)など銀座に触れた本にしばしば引用されている『銀座書留』には、「慶長17年、江戸において銀座を設置する旨が仰せ付けられ、通町京橋より南に四町を拝領し、銀座役所や銀座人の屋敷、さらに常是吹所が四町のなかの三町にあり、四町のうち一町は銀座に関係する両替商買人に与えた。」と書いてあります。(*『銀座書留』の原文は漢文ですが、私なりに現代語訳しました。)
ここに書かれているように江戸時代の新両替町1丁目から4丁目(現在の中央通りに面する銀座1丁目から4丁目にあたる)には、銀座人(後述)や銀座両替商買人(銀座両替商買人は、銀座の支配下にあって、諸国灰吹銀の買集めに従事した商人達をいう)などの銀座に関わる町人の屋敷が建ち並び、「銀座役所」や「常是吹所(銀貨鋳造所)」も建てられていました。
「銀座発祥の地」碑には、江戸時代に銀座役所があった場所に碑を建てたと書いてありますので、ここに銀座役所があったようです。
この銀座役所とは、『近世銀座の研究』(田谷博吉著)に記載されている『慶長17年銀座四町絵図』によれば、新両替町2丁目東側にあり、間口が10間あったことが確認できます。
現在はティファニー銀座本店が入居しているティファニー銀座ビル一帯に銀座役所があったことになります。(下写真)「銀座発祥の地」碑は、このティファニー銀座ビルの前に設置されています。

ところで銀座役所とは、『図解日本の貨幣Ⅲ 近世幣制の展開』によると「銀座役所は銀座会所ともいい、銀座人が詰めて事業の運営にあたった事業所である。」ようです。また、『近世銀座の研究』には「銀座役所あるいは銀座会所は、銀座人が会同し、公儀御用のことを取り扱ったところである。」とも書いてあります。
銀座は、銀貨を鋳造していたことから幕府直属の組織と思われがちですが、銀座自体は、町人が運営していた組織でした。『近世銀座の研究』にも、「銀座は、官営の鋳造所ではなく、銀座として特許された町人の一団によって組織されていた」と書かれています。
銀座を組織していた町人は銀座人と呼ばれ、頭役、勘定役、平役などの職階にわかれ、慶長17年(1612)には51人いました。
この中で、銀座の経営にあたったのは頭役とよばれた人たちで、時代により、その人数は変わりますが、当初の頭役は10人いました。
「慶長17年銀座四町絵図」によると、銀座役所の南隣りにあたる新両替町2丁目東側の南角に大黒長左衛門の屋敷があります。これが『銀座書留』に「常是役所」と呼ばれている屋敷で間ロ15間となっています。
この場所は、現在はBVLGARI(ブルガリ)が入居している第一三共銀座ビルがある一帯になります。

大黒長左衛門は、伏見銀座の開設に際して徳川家康からとくに銀吹人として吹所(鋳造所)を任せられた大黒常是(湯浅作兵衛)の次男です。長男の作右衛門は京都銀座の吹所を任せられ、次男の長左衛門は駿府の銀吹所を任せられ、駿府の銀座が江戸に移転したのに伴い、江戸の銀座で銀貨の鋳造や包銀(つつみぎん)を担当していました。そのため、大黒長左衛門の屋敷には吹所(鋳造所)と包所(銀貨を包銀に包装する部門)もありました。
包銀とは、銀座で一定量の銀貨を紙包みにしたもので、包銀は開封することなくそのままの状態で譲渡されました。この金貨や銀貨を紙で包んで使用する方法は中世に砂金を布袋や紙に包んで受け渡したことに由来しているようです。(『日本史小百科 貨幣』p90より)

