旧前田家本邸の洋館は華族の邸宅のすごさがわかる(駒場散歩②)
今回は、駒場散歩の2回目で、旧前田家本邸のうち洋館をご案内します。旧前田家本邸は、旧加賀藩主の前田家第16代当主の前田利為(としなり)が自邸として建てたもので、洋館と和館からなります。下写真は洋館の玄関です。前面に張り出した車寄が特徴となっています。
前田利為(としなり)は、元加賀100万石の大名家の当主でありながら時代の趨勢を考慮して質素・簡易な生活を志向していたそうです。一方、関東大震災で大きな被害を受けた東京帝大はキャンパスの拡張を企図しました。そこで、東京帝大は、前田利為(としなり)に、駒場の農学部敷地4万坪との土地交換を申し入れました。前田利為(としなり)は、この土地の交換に応じ、駒場に本邸が移ることになりました。そして、洋館が昭和4年(1929)、和館が昭和5年に建てられました。現在は、洋館は東京都、和館と敷地は目黒区が管理しており、平成25年に「旧前田家本邸」として国の重要文化財に指定されています。
洋館1階は社交の場で、2階は家族の生活の場でした。旧前田家本邸洋館の平面図を見ると西向きにある玄関を入ると階段広間があり、階段広間の南側に西から東に順に応接室、サロン、小客室、大客室の各室が並んでいて、東側には大食堂と小食堂があります。下写真は玄関ホールを入って正面の階段広間です。
階段の下にはイングルヌックが設けられています。イングルヌックとは暖炉脇の小さなスペースをいい、ここでは、小さな談話室のような役割を果たしていたようです。(下写真)
ここの窓ガラス(上写真の右手)はステンドグラスでした。中庭側から差し込む光の効果を考えて上部のほうが色が濃くなっています。(下写真)
玄関ホールの左手にあるサロンは、玄関ホールに続いたお客様の待合です。黒色大理石のマントルピースとその上の大きな鏡が注目されます。黒色大理石はヨーロッパから輸入したもので、大きな鏡は部屋を広く見せるための工夫だそうです。下写真は、大鏡とマントルピースの説明を聞く参加者たちです。
「大食堂」は晩餐会用で、最大で26人までのディナーができたとのことです。白大理石のマントルピースが中央に据えられていますが、これは暖房用ではなくいわば「床の間」で正面をはっきりさせるためだそうです。下写真は大食堂で説明を聞く参加者たちです。写真中央がマントルピースです。
小食堂の壁面には前田家で使用していた銀食器類も展示されていました。中央はグレープスタンド、右手は奥から、ぶどう鋏、くるみ割、ナッツピッカーと書かれていました。
階段を登って2階に向かいます。2階は家族の生活の場でした。平面図を見ると、階段を登ると南面して西から東に書斎、次女居室、夫人室、寝室と続き、東に曲がって三女居室があります。長女の居室と三男の居室が西側にあります。下写真は階段を登り、2階ホールからみた階段です。
階段脇の窓ガラスはステンドグラスとなっています。上部のほうが少し濃くなっていますが、採光を考えたものだそうです。
ところで、平面図をみると長男の居室がありません。このことについて特にガイドの方から説明がありませんでしたが、長男は既に独立していたためではないでしょうか。ちなみに次男は幼いうちに亡くなっています。
2階の最西部には利為の書斎があります。
利為が使用した書斎は、当時の様子が復元されていますが、室内に入ることはできません。書斎の中央には利為が使用した机、右手には応接セットがセットされていました。上写真が応接セット、下写真が机です。
上写真の右上に肖像画ありますが、菊子夫人の肖像画です。ちなみに菊子夫人は利為の後妻で、姫路藩主であった酒井雅樂頭家25代当主酒井忠興の次女として生まれました。利為の最初の妻漾子(なみこ)夫人(前田家15代当主前田利嗣の長女)は、利為とともにフランスに滞在している際に病に倒れ大正12年にフランスで亡くなりました。
下写真は夫妻の寝室です。ここも室内に入れませんでしたが、説明によるとベッドはロンドンの高級家具店ハンプトン社製で船便で送られてきたものだそうです。また枕元には前田家当主の守り刀が納められているそうです。
洋館は見どころ満載です。今回紹介したのはほんの一部です。旧前田家本邸のすごさをを知るためには事前に調べていくほうがよいと思います。ただ、インターネットで検索しても詳しく説明したものがありません。従って、手軽に昭和初期の華族の御屋敷のすごさを知るには、ガイドツアーを利用するのがいいと思います。旧前田家本邸のガイドツアーは毎週金曜・土曜・日曜・祝日の午前10時30分~、11時30分~、午後1時30分~、2時30分~の1日4回開催されています。
最後に、玄関前の庭には、色とりどりのバラが満開で、こちらも見事でしたので、それをアップしておきます。