本丸御殿の対面所では徳川義直の婚儀が行われた(名古屋城本丸御殿➂)
名古屋城本丸御殿のご案内の3回目は「対面所」です。「対面所」は藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席のために利用された建物です。
対面所は、上段之間、次之間、納戸、納戸二之間の四部屋からなっています。それぞれの部屋の広さは上段之間が18畳、次之間が18畳、納戸一之間が24畳、納戸二之間が24畳あり、合計で84畳あります。
下写真が対面所の各部屋の配置図ですが、見学順路は、納戸二之間⇒次之間⇒上段之間⇒鷺之廊下となっていて、納戸一之間は納戸二之間から遠くに見るようになっています。

見学順路の最初に見ることができるのが納戸二之間です。納戸は、現代の住宅では、あまり使わない物を収納しておくための部屋つまり物置を納戸と呼んでいますが、江戸時代には、対面のために上段之間に出る前の控えの間でした。藩主が控えていた部屋が納戸一之間で、身内や親しい家臣が控える部屋を納戸二之間でした。
下写真は納戸二之間から撮った写真ですが、手前側が二之間です。奥に見える部屋が一之間です。描かれているのは「山水花鳥図」です。

次之間には風景が描かれていますが、その風景は藩主徳川義直の正室春姫の故郷である和歌山の風景です。
尾張藩主徳川義直は、和歌山藩前藩主浅野幸長の次女春姫を正室に迎えましたが、慶長20年(1615)4月12日に、二人の婚儀が本丸御殿の対面所で催されました。
ところで、和歌山藩というと紀州徳川家を思い浮かべる人が多いと思いますが、慶長20年(1615)当時は、浅野長晟(ながあきら)が藩主でした。浅野幸長(よしなが)は、浅野長政の嫡男で、関ケ原の戦いで徳川家康に味方した功績により和歌山に封じられましたが慶長18年に亡くなり、弟の長晟(ながあきら)が跡を継いでいました。元和5年(1619)に福島正則が改易された際に、浅野長晟が広島に移封され、その後に駿府藩主徳川頼宣(家康の十男)が和歌山に移封され、紀州徳川家と呼ばれました。
慶長20年の5月には大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅亡しますが、『駿府記』によれば、徳川家康は4月10日は名古屋に到着しています。そして、徳川家康は、二人の婚儀の後も駿府に戻らず、15日に名古屋を出発し京都に向かいました。なお、二人の婚儀には豊臣秀頼から刀や小袖が贈られ、その際の書状が徳川美術館に残されています。
現在、名古屋市では、この義直と春姫の婚儀にちなんで、春に「尾張徳川春姫まつり」が開催されています。
下写真が次之間です。正面に船が描かれていますが、これは和歌山の名勝和歌の浦を描いたものだそうです。なお、写真の

上段之間には床の間、違い棚、帳台構(ちょうだいがまえ)がある書院造りの部屋となっています。上段之間に描かれている絵は京都の風景とのことで、床の間に描かれているのは京都の愛宕山とのことです。
下写真の右手が床の間、その奥に違い棚、正面が帳台構です。

下写真が違い棚です。

下写真が帳台構の写真です。描かれているのは『加茂競馬(かものくらべうま)』とのことです。帳台構の裏側が納戸一之間となっています。

対面所を見終わると鷺之廊下(さぎのろうか)となります。鷺之廊下(さぎのろうか)は、対面所と上洛殿を結ぶ廊下で、寛永11年(1634)に上洛殿とともに増築されました。下写真が鷺之廊下ですが、鷺之廊下という名前の通り、廊下の壁には鷺の絵が描かれています。


