尾張藩の青松葉事件の真相は不明。(名古屋城本丸御殿⑥)
名古屋城の東門から本丸御殿に行く途中の二の丸跡に「尾藩勤皇 青松葉事件之遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、慶応4年に尾張藩でおきた青松葉事件があったことを示す石碑です。(下写真)
隣の説明板には「慶応4年(1868)1月、前藩主で、藩の実権を握っていた徳川慶勝が、佐幕(江戸幕府存続)派の藩士14人を処刑した。慶勝は勤王(倒幕)派で、家中の佐幕派を一掃したとされる。これが青松葉事件である。事件は箝口令(かんこうれい)が敷かれ、不可解な部分も多い。処刑された人々が、本当の意味で佐幕派であったかも疑わしいと考えられている。」と書かれています。(下写真)
今日は、青松葉事件とはどんな事件であったのか書いてみます。
青松葉事件とは、慶応4年(1868)1月20日から25日にかけて、尾張藩内の佐幕派とされた渡辺新左衛門在綱(ありつな)、榊原勘解由正帰ら14名が処刑された事件です。
前年の慶応3年12月9日に王政復古の大号令が発せられました。この時、摂政・関白、そして幕府の廃止が決まり、総裁・議定・参与が新たに設置されました。ここで、徳川慶勝は新政府で重要なポストである議定となり、松平春嶽ともに徳川慶喜に対して辞官・納地をするよう通告しました。その後、一旦、大坂城に退いた旧幕府軍は、慶応4年1月1日に大坂城を出発し京都に向かい、1月3日には旧幕府軍と新政府軍との間で戦いが勃発しました。いわゆる「鳥羽・伏見の戦い」です。「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が勝利し、1月7日には慶喜追討令が出されました。
この当時、尾張は重要な地と認識されていました。『新修名古屋市史』には次のように書かれています。「尾張の地は、中部・北陸諸藩を背後にひかえ、また、木曽・長良・揖斐の三大河川が横たわり、大藩である尾張藩の向背は天下の動向を左右するものであった」
このような情勢下で、1月15日、朝廷は、尾張藩の実力者徳川慶勝に対し「姦徒誅戮(かんとちゅうりく)、近国ノ諸侯ヲ慫慂(しょうよう)シ勤王ノ志ヲ奮発セシメ」るようにとの勅語を発し、尾張に帰国するよう命じました。
急遽準備を整え、15日に京都を出発した徳川慶勝は、20日に名古屋に帰城しました。そして、即日、年寄列渡辺新左衛門在綱(2500石)、大番頭榊原勘解由正帰(1500石)、大番頭格石川内蔵丞照英(1000石)の3人の重臣は、取り調べもなく、二ノ丸向屋敷の馬場で斬罪に処せられました。
その後25日にかけて粛清が断行され、合計14名が斬罪となり、家名断絶、揚屋人り、永蟄居などの処分を受けた藩士は20名に及びました。
これが青松葉事件と呼ばれる事件です。青松葉とは、この時に処罰された渡辺新左衛門家の異名だそうです(『国史大辞典』より)。
なお、渡辺新左衛門家は徳川家康の幕府創業を助けた徳川十六神将の一人に数えられる「槍の半蔵」こと渡辺守綱の弟渡辺政綱から始まりました。渡辺守綱は、徳川家康から尾張藩主徳川義直の付家老となるよう命じられ、子孫(渡辺半蔵家と呼ばれる)は代々尾張藩の家老として仕えました。
青松葉事件は、「事件に関する証拠書類などが抹消されたことや、箝口令(かんこうれい)がしかれたこともあっていまだ不明な点も多い」(『新修名古屋市史』)ようで、なぜ、このような事件が起きたのかもわかっていないようです。
「名古屋市史」でも、「当時の事状を子細に観察するに、是等佐幕派が果たして幼主義宜(よしのり)を擁して事を挙げんとするの計画ありしや否やも詳ならざりしのみならず、年来姦曲の処置と云うもの、未だ事実の徴すべきなし。当時の風評たりし佐幕派の連判状又は盟約書という如きものも、また遂に果たしてこれありしや否や明らかならず」としています。
青松葉事件がどのような事件であったのか評価するのは私にはできませんが、『国史大辞典』と『図説愛知県の歴史』には次のように書かれていことを紹介しておきます。
『国史大辞典』で小島広次氏は「名古屋藩では反幕的な『金鉄党』と親幕的な『ふいご党』の藩内対立抗争はあったが、他藩にみられるような門閥上士層と有能下士層の抗争というほどの際立ちは少なく、反幕は反幕閣であっても反将軍家ではなく、親藩意識は両者ともにあった。この上に成立した尊王にして敬幕の政治路線も討幕路線がひかれ、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬が慶勝の実弟であってみれば、名古屋藩自身の存立も危うくなる新事態であった。これに対応する転進を藩の内外に示すための犠牲事件である。」と書いています。
『図説愛知県の歴史』 で林英夫氏は「こうして右顧左眄(うこさべん)の日和見主義で通すことのできない切迫した段階で、藩内に『佐幕派』を作りあげ、『朝命』による断罪なるものを強行して、天皇・薩長軍への忠誠の見せ場を設定し、藩論が『勤王』の方向に帰結したことを外に向かって示したのである。これが青松葉事件であり、でっちあげの政治暗転のからくりであった。」と書いています。
青松葉事件については、詳しく書いたものが余りありません。『名古屋市史』『新修名古屋市史』のほかでは、郷土史家水谷盛光氏が書いた『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 : 青松葉事件資料集成』(発行1971年)や『実説名古屋城青松葉騒動 : 尾張徳川家明治維新内紛秘話』(発行1972年)に詳しく書かれていることですので、機会をみて読んでみたいと思います。
下地図の中央が「青松葉事件之遺跡」碑です。