青松葉事件を描いた『冬の派閥』を読む。(名古屋城本丸御殿⑦)
青松葉事件について書いた本はあまりないと前回書きましたが、その中で城山三郎が描いた『冬の派閥』は、徳川慶勝を取り上げる中で青松葉事件について触れている小説です。本日は、この『冬の派閥』の紹介およびそれを読んで感じたことを書いてみたいと思います。長くなりますがご容赦下さい。
この本の紹介文には「御三家筆頭として幕末政治に絶大な影響力を持つ尾張藩の勤王・佐幕の対立は、ついに藩士十四人を粛清する〈青松葉事件〉へと発展し、やがて明治新政府下、藩士の北海道移住という苦難の歴史へと続く。尾張藩の運命と不可分の、藩主・徳川慶勝の「熟察」を旨とする生き方を、いとこ一橋慶喜の変り身の早い生き方と対比させつつ、転換期における指導者のありかたを問う雄大な歴史小説。」と書かれています。
この紹介文を読むと徳川慶勝と徳川慶喜が主人公のように書かれています。しかし、慶勝は重要人物として登場しますが、慶喜は作品中にはほとんど登場していません。青松葉事件については描かれていますが、渡辺新左衛門ら青松葉事件で処罰された人たちはほとんど登場しません。一方、青松葉事件で処罰する側にたった「金鉄党」の人々は、いろいろな場面で登場します。
慶勝が尾張藩主になり亡くなるまでが小説全体の三分の二となります。そして、明治になってから、「金鉄組」の人々の多くは北海道に移住しますが、この開拓の苦労が終盤で描かれていて、北海道移住・開拓の部分が小説全体の三分の一を占めています。
前半の青葉事件に至る部分では、淡々と書かれているように感じました。しかし、後半の北海道移住編は、描写もビビットに書かれていて、小説としては、後半のほうがおもしろいと感じました。
『冬の派閥』は青松葉事件について触れているとはいいながら、詳細に書かれているわけではありません。しかし、青松葉事件について書いてある唯一の小説ですので、青松葉事件を知るには良い小説だと思います。徳川慶勝の生き方や青松葉事件に興味のある方はお読みいただくとよいと思います。
『冬の派閥』のなかで、城山三郎が青松葉事件についてどう描いているかは後で書くことにして、その前に徳川慶勝が藩主となった頃の尾張藩がどのような状況であったのかが『冬の派閥』に書かれていますので、それまず見ておきたいと思います。
徳川慶勝は、尾張藩の支藩である高須藩の藩主松平義建(よしたつ)の次男として生まれ、早い時期から尾張藩主になることを期待されていました。徳川慶勝は、幼いころは秀之助、元服後は義恕(よしくみ)と名乗り、尾張藩主となってからは、当初、慶恕(よしくみ)、後に慶勝と名乗りますが、ここでは慶勝で統一します。
尾張藩は、それまで10代藩主斉朝(なりとも:一橋家出身)、11代藩主斉温(なりはる:家斉の十九男)、12代藩主斉荘(なりたか:家斉の十二男)、13代藩主慶臧(よしつぐ:田安家出身)と4代にわたり11代将軍徳川家斉の子供や御三卿の子供が藩主となっていました。そのため、藩内には支藩高須藩の慶勝を藩主に擁しようとするグループができ「金鉄組」と呼ばれました。その「金鉄組」のリーダー格が田宮如雲(じょうん)でした。
慶勝が晴れて14代藩主になると、田宮如雲(じょうん)を順次昇進させ側用人にまで登用します。
しかし、慶勝は将軍継嗣問題で徳川慶喜を押したため、安政の大獄で、隠居・謹慎を命じられてしまいます。そして、実家の高須藩主であった慶勝の実弟茂徳(もちなが)が15代藩主となります。この時、幕府と良好な関係にあった付家老の竹腰兵部(正富)を中心とした人たちが復活し、慶勝の側用人田宮も失脚し、竹腰と対抗していたもう一人の付家老成瀬隼人正(正肥:まさみつ)や金鉄組は冷遇されます。
その後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、慶勝の処分が解除され、慶勝は復権します。慶勝の復権により、「金鉄組」も復活します。しかし、「金鉄組」のことをこころよく思わない藩士たちは、「ふいご党」を呼ばれるようになります。(※「ふいご党」とは「金鉄をとかすふいごの火」という冗談から名づけられた呼び方だと文中に書かれています。)
慶勝の処分が解除されたとしても、あくまでも尾張藩の藩主は茂徳(もちなが)であり、慶勝は隠居の身でした。こうして、尾張藩内には、慶勝・成瀬隼人正・金鉄組というグループと茂徳(もちなが)・竹腰兵部・ふいご党というグループが存在することになりました。そして、乱暴な分け方をあえてすれば、金鉄組は攘夷・勤皇派で、ふいご党は佐幕派ということになっていました。
こうした状況が、大政奉還・王政復古の大号令が発せられる直前の尾張藩内の状況です。
前述の二つのグループが存在する状況下で、尾張藩は、幕末・明治の激動に巻き込まれることになり、青松葉事件が勃発します。『冬の派閥』では青葉事件発生までの経緯について概ね次のように書かれています。
慶応3年10月15日、徳川慶喜が大政奉還をします。これを受けて慶勝は京都に来るよう命じられ、上洛します。これにあわせて田宮如雲をはじめとする「金鉄組」も上京します。そして、12月9日に王政復古の大号令が発せられました。この時、慶勝は議定となり、田宮如雲は参与を命じられます。そして、1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こり、旧幕府軍は敗北し、慶喜を征伐する東征軍の発向が決まります。
そうした中、名古屋から「金鉄組」のメンバーである監察吉田知行が上京して、ふいご党の一派が幼君義宜(よしのり:慶勝の子供で16代藩主)を擁して江戸へ走り、幕府軍に加わろうとしているという情報をもたらしました。
この情報は、慶勝だけでなく、既に岩倉具視にも届いているとの連絡を受けて、慶勝は、成瀬隼人正、田宮如雲らを岩倉具視のもとに派遣し協議を命じます。彼らが持ち帰ったものは「尾張は軍事上の要地であるのに、藩内に不良な姦徒が隙をうかがっている。早々帰国して処刑せよ」という御沙汰書でした。御沙汰書には「姦徒(かんと)誅戮(ちゅうりく)」と書かれていました。
朝命(朝廷の命令のこと)を受けた慶勝は驚いたものの、朝命に逆らうことができず、1月15日、尾張に急ぎ帰国することにします。この時、側用人の田宮如雲にも同行するよう命じますが、田宮如雲は、この命令を固辞します。また、付家老成瀬隼人正は慶勝に同行して帰国するものの慶勝より1日遅れの日程で帰ります。そのため、慶勝は名古屋城に入るのを一日遅らせ、19日に名古屋の手前の清須に一泊して成瀬隼人正が到着するのを待つほどでした。
そして、20日に名古屋城に帰ると、即日、渡辺新左衛門、榊原勘解由、石川内蔵丞の三人を呼び出し、彼らの弁明を聞く機会も与えず、成瀬隼人正が、朝命の名のもとに斬首を申し渡しました。討手は「金鉄組」のメンバーでした。それ以降、「ふいご党」と思われる多くの藩士が処罰されました。
以上が、『冬の派閥』が描く青松葉事件の顛末です。
『冬の派閥』を読むかぎりでは、ふいご党が幼主を奉じて幕府に味方しようとした事実があったようには書かれていません。それどころか、文中には、三人の斬首が実行された翌日、「義宜をかついで幕府に走るという企みが、果たしてあったのかどうか、いよいよ疑わしくなった。」と慶勝が疑問に感じる場面があります。
また、「冬の派閥」では、監察の報告が慶勝のもとへ届けられるのと同時に岩倉具視にも届けられ、朝命が発せられたとしてあります。
こうしたことから、どうも、城山三郎は「青松葉事件は田宮如雲と岩倉具視が画策して尾張藩を新政府側につかせるために起こした事件である」ととらえているように感じました。小説の中で各所にそれを匂わす文章がありますが、岩倉具視が亡くなった時の慶勝の感慨として「明治16年7月20日、療養中の岩倉具視が死んだ。慶勝より一歳年少の59歳であった。(中略)岩倉の死の報せを、慶勝は病床で聞いた。慶勝にとって、岩倉とは、権謀術数の人、そして、青松葉事件を引き起こした朝命の発令者である。『姦徒を誅戮(ちゅうりく)せよ』とのきびしい文言は、熱のあるいまも、慶勝の瞼(まぶた)から去らない。慶勝の後半生は、あの文言からはじまり、そして終わった。」と書かれているのが、最もそれを表していると感じました。
ところで、『冬の派閥』後半三分の一は、金鉄組の人々が、北海道に移住して原野を開拓していく姿を描いています。金鉄組の人々が北海道移住を計画したのは、名古屋での住みずらさがあったようです。青松葉事件で処罰された人々を介錯したのは、金鉄組の人々でした。この人たちの亡くなり方が尋常ではなく、名古屋の人たちは「たたり」だと噂したと書いてありました。金鉄組の人にとってはつらいものだったと思われます。北海道移住計画の先頭にたったのが、監察として「ふいご党の策謀がある」と京都に知らせた吉田知行であったこともそれを表しているように思います。彼らは、厳しい自然環境の中で予想を超える苦労をします。しかし、多くの移住者たちは脱落することなく、開拓を成し遂げます。(※この「金鉄組」を中心とした尾張徳川家の家臣団により開拓された町が現在の北海道八雲町です。)
この開拓に際して、徳川家は、毎年、開拓にあたる藩士たちに扶持を与えていました。当初は2年間という約束でしたが、その期限をすぎても現地から「今年は凶作で作物がとれない」という報告があれば、そのまま受け入れて、援助しつづけたそうです。これは、青松葉事件を防ぐことができなかった慶勝の贖罪(しょくざい)のようにも私は思われました。
最後に、青松葉という名称について、城山三郎は「渡辺新左衛門には、『青松葉』という妙な呼び名もあった。鉄砲を鋳造するのに、青松葉をくべたからでもあり、また、知行地から年貢米を納めさせるとき、他家のものと識別するため、青松葉を俵にささせ、検収するにあたっては、その松葉を抜いて数えたりしたからでもある。」と書いていることを記しておきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。